松下通信を支えた50人:田中裕 | 松下通信を支えた50人

松下通信を支えた50人:田中裕


20102月某日2

「松下通信を支えた50人」の一人として、原田は次に田中裕の話を始めた。松下通信の3本柱の一つAVシステム事業は何度か事業部名を変えており、創業時は音響事業部としてスタートして次に視聴覚機器事業部に変わりそしてAVシステム事業部に変わった。田中裕は視聴覚機器事業部の時代に活躍し事業を大きく育て、役員としては1976年から取締役4年、常務取締役2年、専務取締役2年を務めて、のちに社長となる石沢命孝にバトンタッチした。


「田中裕は松下通信の音響事業の質を上げるだけでなく規模の拡大でも貢献しています。高出力単一指向性のECMマイクをNHKに納めてブランド力を上げると共に、ECMマイクの生産体制を年々増強して退任直前には生産累計3億個に達しました。音響システム事業にも力を入れ、横浜スタジアム、西武球場、新橋演舞場へと次々と大規模システムを納めました。また、プロ用サウンドとしてRAMSAブランドを立ち上げ世界最大級の屋外コンサート“ジャパン・ジャム”で衝撃的なデビューを飾りました。RAMSAは国内外に積極的に展開しニューヨークハードロックカフェにはRAMSAホール音響システムを納めました。」

「松下通信の音響システム事業はこれで一気に加速したわけですね。」と、中松氏。

「田中裕は視聴覚事業の一環としてカメラ事業にも力を入れました。役員就任後、カメラの販売を4倍に伸ばして200億の事業に育て、1981年には視聴覚機器事業部から分離独立してビデオカメラ事業部を誕生させました。新テルックシリーズの発売により監視カメラ事業が大きく躍進、この流れが現在のネットワークカメラ事業へとつながっています。」

原田は田中裕の人となりについても話を始めた。
「いつも紳士然とした振る舞いで尊敬していましたが、同じ佐江戸地区にあった自動車機器事業部には強烈なライバル意識を持たれていました。たまたま私が佐江戸北にある田中専務の部屋を訪ねた時、佐江戸南に見える自動車機器事業部の建物を指さし、“君にあの建物はどう見える?みすぼらしく見えないか。”と、言われました。自動車機器事業部が苦戦していた時で、うまくいかない時は建物までそう見えるとの説明でした。思わぬ言葉に驚きそんなものかと唖然としました。」
原田にとっては30年も前の思い出話だった。

 

2週間後に続く

 

 

 


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