F-1


 80年代日本に於けるF1人気の全盛期、私も食い入るようにテレビでそれを観戦していた。「早い車は美しい」とは良く言ったもので、F1マシンの追求された空力デザインを構成する1本1本のラインはどれも刺激的である。シャシーのアンダーボディーの直線は、地上すれすれを時速300Kmの世界で突き進み、時折バンピーな路面で火花まで撒き散らす。


 サイド・ポンツーンは、凄まじい風圧を絶妙な曲線で優雅に流していき、究極の直線と曲線がオーバー300kmの世界を演出する。その限界ぎりぎりの世界の中で、ドライバー達は、状況に応じたベスト・ラインを寸分違わずなでていき、コーナーでは、2台のマシンがノーズの突っ込みを賭けて直線と曲線を激突寸前のところで戦わせる。ラインが生き物となって己の存在を激しく主張しあう。


 当時の天才ドライバー、アイルトン・セナが奏でるラインは、私にはあまりにも悲壮的に映った。彼は他のドライバーよりも更にぎりぎりのところでラインを描いていた。それ故、彼のレースは優勝かリタイヤのどちらかといった結果をもたらすことも多かった。もう一人の天才、シューマッハもセナと同じ次元でラインを描いていたが、彼のそれには悲壮感は、全く感じられない。むしろレースを楽しんでいる様子がひしひしと伝わってくる。同じ次元でありながらも、両者が描くラインの印象の違いは、恐怖に脅えながら立ち向かう物と、恐怖を克服して立ち向かう物の精神力の違いの現れだと私は受け止める。


 ある時、セナの走りを観戦していた私は、隣で一緒に観戦していた妻に呟いた。


こいつはいつか死ぬ・・・と


 1994年、サンマリノ・グランプリを生放送で観戦していた私の目の前で、セナの張り詰めた一本のラインがついに切れた。
その悲壮感漂う走りをいつも敏感に感じ取っていた私だけに、セナというドライバーはあまり好きでは無かった。それでもあの時は、涙が止めどもなくこぼれ落ちた。命を削って描き続けた君のあのラインは、私の記憶から決して消える事は無い。