風は、気(spirit:精神)の流れである。風はギリシャ語でプネウマpneuma(息吹)とされ、存在の原理であるともされた。キリスト教でも聖霊という意味で使われていたりもする。

 

気を感じるというのは、風を感じるということ。でもその風はどこから吹いてくるのだろう。

 

 いやしくも認識が対象に関係する場合に、両者の直接の媒介をなし、すべての思惟が手段として求めるものは直観である。けれども直観はわれわれに対象が与えられるかぎりにおいてのみ生ずるにすぎない。しかしこのわれわれに対象が与えられるということは、これまた、(少なくとも我々人間にとっては、)対象がわれわれの心を何らかの仕方で触発することによってのみ可能なのである。(E.カント『純粋理性批判』、高峯一愚訳、河出書房新社)

 

直観とは感性によって生ずるもので、その形式は時間と空間である。対象というとき、すでに意識の内で対象として措定されているわけだ。対象として措定しているというのは、それが自分が欲しているものだということ。つまり、自分が欲しているものに触発されていることになる。

 

それは、欲しているものが対象として意識の内に入ってくるということだ。炎天下の砂漠で飲み物がないとき、水に関係するもの以外は一切対象とはならないだろう。心の状態もそうだ。そのとき欲しているものが、自分を触発するものとして対象となる。

 

私自身が風なのだ。私が風となって触発し、風に触発されたものを私が感じる。けれども、自分の根っこから吹いてくる風がある。私は大いなるものと根底で通じている。その大いなるものとは、存在 だ。

 

その風は、やさしく温かく包み込むもの。それに包まれるのはほんの一瞬。だけどその一瞬は至福の刻だ。

 

私が私を包んでいるのだけれども、それは私が大いなるものと通じている瞬間なのだと思う。

 

そのとき、私は見えない何かを空に見つめる。すべては普遍に通じている。その通路がふさがれているだけ。どんな風を感じるかは、自分次第なのだ。

 

人は決して一人ではない。必ず、包み込んでくれるものがある。私とは、一であり全であり、全であり一であるのだから。