「Sリーグ観戦記」            2025.9月

 

 ロングボードをバンに積み、駐車場から静かに出て行った。外はまだ暗い早朝4時。行先はALL JAPAN PROが行われる茅ヶ崎海岸。昨日は私も大会会場で嫌がる娘の反対を押し切り大応援旗を振って応援した。見事予選を勝ち上がり、今日2回戦目を戦うため試合前の早朝練習に向かったのだ。

 

 今シーズンから日本のプロサーフィンは、Sリーグと名称を替え、サッカーのJリーグのようにS.ONEとS.TWOの2部制になった。試合ごとにランキングされ、賞金総額の多いトップ選手の集まるS.ONEを目指して戦うことになった。年間4試合を戦い昇格できなければまた下部S.TWOで過ごすことになるという過酷な試練が待っている。

 

 サーファーなら誰しも憧れるプロサーファーだが、多くの選手が他に仕事を持っていて、そこから活動費を捻出している。しかし、好きなことにエネルギーを費やし人生を懸けてやることがあるということは幸せなことなのだと思う。

 

 私の影響でサーフィンを始め、プロとなり日本一を懸けた舞台で戦う姿を見ることに自分の夢を乗せていると言ってもいい。目標に向かって挑戦するその過程を楽しんで欲しい。彼女の勇姿にはかっこよさを感じる。

 

「高校の親友」2025.9月

 

 中ランにドカン、パンチパーマにヨーロピアン。昭和の高校時代。出席番号後ろの席の友は水泳部に所属し、私と同じ長身でやたらと声が大きく、人の似顔絵を描くのが上手く、いつも授業中に先生のものまねをしてクラスを爆笑の渦に巻き込んでいた。

 

 高校を卒業した後連絡を取ることもなく3年の月日が流れた。私は短大を卒業したが就職もせず、アルバイトとサーフィンに明け暮れていた。自分が腰痛になったことで、人の体を治すことに興味が湧き、マッサージ師になるため小田原の鍼灸マッサージ師の専門学校を受験することになった。そこは高校のサッカー部で毎日練習していたグランドの目と鼻の先にあり、周辺地図を知っていたので車で行き、駐車できそうな所を探していると前から見覚えのある男が坂を登ってくる。「田原お前こんな所で何やってんの?」偶然あの後ろの席の同級生と再会したのだ。高校の時はただふざけ合い、将来何になりたいなど全く考えていなかった二人がどうしてこういう経緯になったのか身の上話もする間もなく試験は始まった。確か一般教養と面接、小論文だったと思う。彼は鍼灸マッサージ課程を受験し、私はあん摩指圧マッサージ課程だった。鍼灸の方が難しく倍率が高いのだ。彼は2週間後の姉妹校湯河原校も受けるという。「何で鍼灸を取らないんだ。鍼灸も取っておけ。将来やらなくもいいけど、取っておいた方が自分のためになる。一緒に湯河原を受けようぜ。」と説かれた。結局受けることになり、共に湯河原校に合格した。

 

 当時この種の専門学校は地方にはなく、遠方から学生が来ていた。皆まじめに授業を受けているのに私たちは高校のノリで先生のものまねをして盛り上げようとした。(いや邪魔をしていたかも)2人とも楽しく3年間勉強し、無事国家資格を取った。

 

 またお互い別々の勤務先に就職した。今となっては親友のお陰で東洋医学を学ぶことができ治療に役立っている。彼も地元で治療院を開業し、また患者さんを笑わせていることだろう。

 

「大磯海水浴場140周年記念・照ヶ崎SUP教室」

 明治18年(1885)医師松本順によって大磯に日本初の海水浴場が開設されました。当時海水浴は医療であり、海というフィールドを使った療法でした。海水はミネラルを含み、磯に打ち付ける波しぶきはマイナスイオンを放散し、岩間の濁流に身を任すと皮膚や筋肉が刺激され身体が強化されました。禱龍館という診療所兼旅館では、松本順指導のもと医療行為が行われ、日本料理や西洋料理も楽しむことができ、一帯は保養地となっていきました。時代が進むにつれ海水浴は、「浸かるから泳ぐ」へと変化し、「療養からレジャー」へと進化していきました。大正には板に腹ばいになって波に乗る「板子」が登場し、海水浴場内で波に乗る人がいました。昭和になり戦争が終わると米兵が持ち込んだサーフボードを見本に日本でもボードを製造するようになり、サーファーが急増していきました。私がサーフィンを始めたのは、1978年で、それまでは3mあった長く重いボードは姿を消し、取り回しのし易いショートボードに変わりました。1990年代になるとロングボードがリバイバルし、現在では多種多様なタイプのボードでそれぞれが違った楽しみ方をしています。松本順がかつて国民に提唱した海水に浸かることが健康にいいということは、健康感みなぎるサーファーが身を持って証明しています。

 そんな大磯海水浴場140周年を記念して大磯町が海に関係する催しを企画し、ビーチヨガとSUP教室を行うことになりました。私が講師となり照ヶ崎海岸で「SUP教室」を行いました。町内在住の12名の参加者が140年の歴史に思いを馳せながら照ヶ崎の岩間でSUPを楽しみました。殆どの方がSUP初体験で、普段泳ぐこともない照ヶ崎海岸にて、アオバトの名所で遠く富士山を眺めながらの海上散歩は、大磯ならではの貴重な体験となったことでしょう。






「憧れのプロサーファー」             2025.6月

 「遊びを仕事にするもんじゃない。」と先輩が言っていた。しかし、一度サーフィンの世界に足を踏み入れた者は皆プロサーファーに憧れる。好きなサーフィンで食って行けたら。食って行かずともサーフィンを極めた者をプロと言うのなら、その領域に達したいと思うのは当然のことだろう。海の中でプロは注目を浴びることになる。「あの人はプロだよ。」ということは、誰もが知っている。私も10代の頃プロサーファーに憧れ、その動きを観察した。波の選び方、姿勢、板の持ち方、歩き方、その佇まい。どれを取っても格好よく、友達と真似たものだ。大磯にも格好いいプロサーファーはたくさんいて、それを間近で見ながら学んでいった。
 小さなアマチュアの大会で勝ったりすると自信がつき、だんだん大きな大会に出るようになる。BクラスからAクラス、スペシャルクラスへとレベルが上がってくると、湘南や千葉、伊豆の選手と戦うようになり、実力が付いてくる。共に戦ったライバルたちがアマチュアで成績を残すとプロの世界へと旅立っていく。自分にも可能性があるのではないかと思い込み、プロに挑戦したが、夢と散った。

 私がマッサージ師になったのはサーフィンを続けるための手段だった。20代前半でサーフィンを中断し、勉強をしてプロのマッサージ師になった。手に職を付け、自由な時間を作って海に行く。30代で再び海に戻ってきた。その頃には家族ができ、子育てをしながら、仕事と家庭のほんの僅かな時間を見付けて海に入った。プロのように毎日海に入れなくても、波のある日にできれば、それだけで十分満足だった。

 自分の果たせなかった夢を子に託すというのはよくある話で、親が子にサーフィンを与え、いつしか親より上手くなる。そういう親を見て育った子もまたプロを目指すというのも自然な流れで、私の娘はアマチュアで日本一になった後、昨年プロになった。プロというのは、称号ではなく、それで食っていけるのが本当のプロだが、プロの壁は厚く、負けて帰ってくる度「お疲れ。」としか声を掛けられないが、ここから先は自分の力で道を切り拓いていくしかない。


「ホテルのマッサージ」         2025.5月

 知り合いの居酒屋のマスターの紹介で、ある宿泊施設の客室でのマッサージをすることになった。ただひとつだけ懸念材料があった。自分の治療院であれば、施術することが危険とみなされる飲酒や重い疾患が隠れている場合などは、お断りする場合や一旦医療機関での受診を勧めることがある。その裁量、責任は全て自分にある。しかしここでは私の施術を受けてくれるお客様であり、宿泊施設の宿泊客なのだ。施術方法はマッサージ師に委ねられているもののリスクにどう対応するか不安があった。私はどこにいようと治療院と同じように臨むことにしている。プロなら触っただけで分かるのだろうと、多くを語らぬままベッドに寝てしまう。「旅の疲れを癒すだけ。」という雰囲気に流されてはいけない。

 客室に赴くとお客様は首を寝違えていた。そういう場合患部を刺激し過ぎると筋肉の炎症を助長させてしまい逆効果になる。それを踏まえて痛みの箇所から離れた部分の操作を試みていた。しかしそこではないと自らの手で私の手を首に誘導しょうとする。日本語が全く話せない方だったので、英語でこちらの意向を説明した。こういう場合はよりシンプルな施術に留め、時間を短縮し、余計な刺激を与えず体の持つ再生力に任せた方が効果的だ。マッサージのお陰でその旅を台無しにしてはならない。

 そんなシビアーな体験ばかりではなかった。体の特徴を見極めた後に施術を行うと終了後「体のことを詳しく診て、説明してもらったのは初めてだ。」と喜んでいただき、チップをいただいたり、名刺を要求されることもあった。

 環境を変えたことで新しいアイデアが生まれることにも繋がった。治療のマインドを持った慰安的マッサージとでも言うのか、初心に返り、忘れかけていたサービスという観点から施術に対する考え方が変わる経験になった。開業30年も経つと色々なことがマンネリ化し、技術や考え方が劣化してしまう。今回のこの貴重な体験のチャンスを与えてくれた居酒屋のマスターには感謝している。