Bigmama Words -2ページ目

遠い昔の・・・(3)出さなかった手紙

 Sさん、昨日はどうもありがとう。おかげで作品のほう、なんとなく形になりそうで、少しほっとしています。

 今まで何度か書こう、書こうと思いながら、そのたびに自分の内側から崩れてしまうものを、どうすることもできずに、何本、幻の名作(?)を、脳裏に書き続けたことかしら。でも今は違う。あなたやYちゃん、Iちゃんやその他もろもろの友人たちに支えられて、やっと歩けだせそうな気がするのです。

 長い長い空白の時期を通り越して、やっとその空白を埋められそうな気がするーたとえそれが錯覚だとしても、今はその錯覚を現実にするだけのものを、私は自分の中に用意したいのですー。

 Sさん、今まで私は故意に自分を語ることを拒否してきました。いつか日常生活が断片の積み重ねでしかないということを知った時、人はその断片を拾い集め、トータルなものにしていくしかないのかもしれません。人と人との触れ合いも、それ以外のものとの出会いも、結局は断片でしかない。人生という長い時間の流れの中で、それは時にはもどかしく、歯がゆいものだとしても、そのことの認識なしに、人と人との触れ合いをつかまえることは、とうてい不可能だという気がするからです。

 いつも断片的にしか人と交われないことに、ある悲しさを感じながら、でもやっぱり断片的にしか、私もまた人と交われないのです。だから逃げていく言葉を追いかけて、まっすぐにそれを相手に伝えることの難しさをいやというほど思い知った時、私は形のあるものを書こうと決意したのです(その前から物書きになりたいと長い間思い続けていたにもかかわらず)。

 何故か私は子供の頃から、たいてい、人が死ぬのは五十、六十を過ぎてからであり、人はそれまでの長い長い時間を生きなければならないのだと思い続けてきましたので、多くの若者たちのように、素直に若さを青春を謳歌できなかったのかもしれないと、今になって思うのです。

 十九歳だったか、二十歳だったか、記憶は定かではないのですが、自分とは何者なんだろうかと考えて、それがものすごい速さで“死”につながっていった時、その時の私は自分の未来になんの希望も見いだせなかったのにも関わらず、過去の歳月に自分を投げ込む前に、未来の自分に賭けてみようと決めて歩き出しはじめたのです。たった一つの思い、物書きになりたい、その思いを自分の腕の中に必死になって抱え込んだまま。

 その頃の私はあなたやYちゃん、Iちゃんに出会う前の、一人の無知な女の子でした。

 あの時の自分を支えていたものが何であったのか、不思議に思うことがあります。もちろん、私が死んだら、母が悲しむ。母を悲しませたくないという思いはつねに心の底にありましたが・・・。

 

 唐突にSへの手紙は途中で終わっている。たぶんこれを書いたのは20代も半ばの頃だったから、恋人でもないS に対して、あまりにも自分をさらけ出しすぎて気恥ずかしくなり、書くのをやめたのだろうか。 

 結局最後まで手紙は書き終わることなく、投函することなく終わってしまった。今になって思うと、これはSへの手紙というより、自分自身にあてて書いたものだったのかもしれないと、何故か、そんな気がしてならない。

 

遠い昔の・・・(2)

 養父からのハガキがある。郵便局で押す消印の日付さえ読み取れないほど、古くなったハガキだ。日本郵便5とあるマークの下に

1円切手が2枚貼ってあるから、はがきの代金が7円だった頃のものだろう。

 文面をみると、前略のあとに行を変えて「ぺんをありがとう」と書かれ、母がお土産に腕時計を買ってきてくれたと続いているから、多分私の所へ母が遊びに来て、その帰りに私が養父に万年筆を言づけた時の礼状なのだろう。しかし、私にはこの時の記憶がまるでない。ただ万年筆を持たせたということは、まだボールペンが世の中に出回り、主流になる前の、1960年代も半ばから後半の頃だろうか。

 

 家出同然で上京した私がなんとか勤め先を見つけて落ち着いたのが1964年の春先だった。当時通っていた札幌のT短大の看護科を退学届もださずに寮を飛び出して東京へ向かい、いろいろあったなかで、とにかく自活しようと懸命に動き回り、ようやくありついたのがK社の事務の仕事だった。学生からいきなり事務員として働きはじめたのはいいが、そろばんは中学生の頃に授業で習ったきりだし、筆記用具も鉛筆しか使っていなかったから、帳簿につけペンで文字を記入するように言われてもうまく書けない。それでも誰かに何も言われることなく勤め続けることができたのは、まだ会社側に新しく入社した社員は気長に育てるという風潮があったからだ。私が入社した会社ばかりではない。社会全体がそうだったから、私ものんびり構えていられたのだろう。なにせ入って1か月ほどは毎日そろばんとつけペンの練習をしていた記憶がある。今、つけペンを使う若い人はほとんどいないと思うが、つけペンというのは、先が尖って、縦に割れ目の入った金属で作ったペン先をペン軸に付け、インクや墨などを含ませて文字を書く筆記用具で、会社関係では一般的に使われていたが、これが使い慣れないと、インクをつけすぎて文字がにじんだり、読めなかったりするので、まずその練習をさせられたのである。ちなみに万年筆といえば、その頃はスポイト式が主流で、値段も高価であったから、会社で事務用品として使うことはほとんどなかった

 話が横道にそれてしまったが、養父も普段はつけペンを使っていたので、万年筆をお土産に持たせたのだろう。あの頃は時計も万年筆も、思い切って買うにはちょっとだけ高価な贈り物であった。

私にとっては遠い昔の話である。

 

 

遠い昔の・・・(1)

 私が若い頃というと、今から五十年近く前のことだから、もうずいぶん昔のことになる。一昔十年という言い方をするなら、五昔近くも前、一九六〇年代のことだ。あの頃は人と人との間の通信手段と言えば、手紙かはがき、電報がほとんどだった。固定電話はあったけれど、一般家庭への普及はさほど進んでおらず、電話のある家は限られていたから、友達や離れて暮らしていた家族とのやりとりはもっぱら手紙だったというわけで、今、私の書棚の引き出しにはあふれんばかりの手紙の束が入っている。普通は恋人からの手紙(それが結婚につながった相手?)以外は処分してしまう人が多いのだろうが、漠然と将来は物書きになりたいと思っていた私は、いつか参考になる時がくるだろうと、さもしい根性で、捨てもせずにとっておいたのだ。しかし、あれから数十年の年月が流れて、そろそろ喜寿を迎えようとする今になって、その手紙やハガキの束が気になりはじめた。私が死んだら、書棚の本や、スクラップブック、エンドマークを書くことなしにしまい込んでしまった書きかけの原稿用紙等は、どうなるのだろう。

 思い切って終活をはじめようと、今年の初めに決めたのに、いまだにあちらもこちらも手つかずのまま。しかし、いつまでも

放っておくわけにはいくまい。その手始めにまず手紙の束から整理しようと決めた。

 

 最初に出てきたのがIさんからの年賀状。奥様のTさんとの連名だ。昭和44年元旦と日付が書いてあり、雪景色の印刷されたはがきの隅に“あそび いらして 下さい、泊まりがけで ぜひ”と書かれている。Tさんの字だ。

 IさんもTさんも、もうこの世にはいない。最初にTさんが亡くなられ、数年後にIさんも亡くなられた。

 Iさんと初めて会った時のことは覚えていないが、Tさんとの出会いは強烈だった。赤坂のとある喫茶店で、S研での勉強の帰り、一緒に机を並べていたグループのみんなとお茶を飲んでいる時だった。あの頃の私は本当に貧しかった。十九歳で東京へ出てきて一年足らずだったから蓄えもなく、昼間、事務の仕事をしていたとはいえ、生活はぎりぎりで、喫茶店に入って、トーストを頼んでもコーヒーを注文する余裕もなかったから、いつもトーストだけをオーダーしていた。仲間たちはそれを知っていたから何も言わない。そこへTさんがやってきたのである。TさんはS研の先輩で、最近S誌に掲載されたIさんの作品を読んで、Iさんに会いに来たという。

 椅子に腰を下ろすなり、「あら、コーヒー頼まないの? 誰か頼んであげれば」

 Tさんは私が水を飲みながらトーストを食べているのを見て、そう言ったのである。全員無言であった。そのあと、どういう風に話が進展していったのか、私はまるで覚えていない。ただTさんの言葉に悪意がないことは、すんなりと理解できたが、Tさんが私とは別世界の人だという印象を強く感じた。しかし、それまでまったく会ったことのないタイプの人だったけれど、友人のMと年齢が近かったせいか、Mを介して、Tさんとも何度か会ったりしているうちに、数年後、IさんとTさんは結婚し、私もよくほかの仲間と一緒に、二人の家に遊びに行ったりしたものだが、それももう今は遠い昔の思い出だ。

 

 一枚の古い年賀状に引き寄せられるように、次から次へと思い出が脳裏をかすめていく。しかし、思い出と遊んでいる時間はあまりない。急がなくては。