今回の参詣は、杉並区善福寺の井草八幡宮(いぐさはちまんぐう)へ。

ここは「上石神井駅」から南に1.5㎞ほどのところの青梅街道。西側には善福寺池、すぐ北には練馬区関町、南西は武蔵野市吉祥寺に隣接する地域。

 

 

 

 

当社があるこの辺りは、縄文時代の人々の生活を窺わせる遺跡が出土していて、太古の昔から祭祀を執り行う聖地だったのではと考えられています。

同じように、すぐ近くの大宮八幡宮も、境内から弥生時代の祭祀跡が見つかっていて、「神道」が形作られるより遥か昔からの霊場だったと知ると、参拝も感慨深いものになります。

 

 

 

 

二神像

楼門の中に立つ、櫛磐間戸神(くしいわまど)、豊磐間戸神(とよいわまど)の像。どっちがどっちかわからない。阿形の黒衣が朱弓・金矢、吽形の赤衣が黒弓・銀矢。

 

 

 

 

井草八幡宮の画像

御手植えの松

中門の手前には、奥州征伐に戦勝した頼朝が御手植えしたという松がありました。昭和に入って枯れてしまい、現在のは二代目。

都内の神社のご神木や霊水は、昭和に枯れてしまったという由来を割とよく見かける。

 

 

 

 

手水舎

水がとても綺麗。

奉納年など未確認でした。

 

 

 

 

三宮神社

手水舎の後ろにあります。

境内にも八幡宮のホームページにも記載が無いので詳細不明。たぶん境内末社の中で三番目といった由来かな。

 

 

 

 

祓戸神社

手水舎の後ろ、三宮神社の右隣にあります。

こちらも境内や八幡宮のホームページに記載が無いので詳細不明。これはそのまんま最初に祓をする場所といったところ。

 

 

 

 

絵馬所

三宮神社の左側にあります。

合格祈願が多いかな。

 

 

 

 

井草八幡宮

当社の創建は詳らかではありませんが、平安時代末期に源頼朝が奥州征伐に際して当社にて戦勝祈願をしたといい、以来八幡大神を祀っていますが、それ以前は春日社であったそうです。また室町時代には、太田道灌が石神井城の豊島氏との戦いに際して戦勝祈願をしたといいます。

 

 

 

 

狛犬

右が阿形で左が吽形。持ち物は無し。

右の台座部に「嘉永六丑年十一月吉日」、左の台座部に「西久保村 岡田五良吉 石工九兵衛」とある。西暦では1853年。同年2月に小田原地震があったぐらい。

それよりもこの一対の狛犬、大きさや毛の流れこそ似ているものの、阿形の方は尻尾や鬣の渦を巻く力強さ、口髭と顎髭があり、ゴツゴツした筋肉質がよく表されている。また吽形の方は後ろ脚まで作りこまれています。

 

 

 

 

頼朝が戦勝祈願する以前に祀られていた春日大神は、どこへ行ってしまったのか。相殿にも、境内摂末社にも春日社はありません。

そういえばこの辺りというか、杉並区内には、大宮八幡宮、荻窪八幡神社、天沼八幡神社、鷺宮八幡神社と八幡社が多い地域性が窺えます。

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

井草八幡宮 由緒

 主祭神 八幡大神

 当社は、古代より人々の生活の場であった遅野井〈上井

草村〉の地に鎮まり、付近から縄文時代の住居跡や多くの

土器・石器が発掘されています。 中でも文華殿〈宝物殿〉

に収蔵する顔面把手付釣手形土器〈重要文化財〉は火を灯

した痕跡があり、何らかの祭祀儀礼に用いたと想像され、

この辺りが神聖な地であったことが窺えます。

 鎌倉時代に入り、文治五年(一一八九)に源頼朝公が奥

州征伐の途次、戦勝を祈願しました。その願いが叶って頼

朝公自ら松樹を手植えしましたが、現在は枯れてしまい、

その末流に当たる松が境内で育っています。

 室町時代には太田道灌が石神井城の豪族豊島氏を攻める

に際して、当社に戦勝を祈願したと伝えられています。

 江戸時代になると三代将軍家光より朱印領六石が寄進さ

れ、こののち歴代将軍何れも朱印地を寄進して萬延元年に

まで及んでいます。この地域の地頭であった今川氏も当社

を深く崇敬し調度品などを奉納し興隆に努め、寛文四年

(一六六四)に寺社奉行の命により改築した本殿は、現在

杉並区内で最も古い木造建築物です。

 明治以降も氏子崇敬者の助力により境内を整備拡充し、

社宝や郷土の民俗資料の保存のため文華殿、民俗資料館を

設置し、教化活動の一環として幼稚園教育を行っています。

昭和四十一年には旧官国弊社に準ずる神社本庁別表神社に

加列され今日に至っています。

 

 

 

 

新編武蔵風土記稿

多磨郡上井草村

八幡社

青梅街道の南にあり、 本社は五間四方、拜殿五間に二間半南向、鳥居二基をたつ、

本地彌陀の坐像長七寸なるを安す、 社領御朱印六石を附せらる、

別當は勝鬼山金胎寺林光坊と云、本山派の修驗にて同郡府中宿門善坊の配下なり、

鎭守年代詳ならず、 當村及井草村の鎭守、 例祭八月十五日

 

 

 

 

境内社

本社殿向かって右側奥、三社並んであります。

 

 

 

 

新町稲荷神社

右側に鎮座

 

 

 

三峯神社 相殿 三谷御嶽神社・新町御嶽神社

中央に鎮座

 

 

 

 

三谷稲荷神社

左側に鎮座

 

 

 

三谷稲荷神社の向かい側の木の下には、「正守庚申」「小御嶽石神大権現」と刻まれた石柱が置かれています。おそらく三峯神社の相殿の新町御嶽神社や三谷御嶽神社にあったものじゃないかな。

 

 

 

 

文華殿

当八幡宮の宝物や奉納品を収蔵する展示館で、年に1度、例大祭期間中の時だけ開放されます。当社の例大祭は10月初旬。

 

 

 

 

招神殿

戦没者を祀った祖霊舎。

建物は、建替え以前は本社の拝殿として使われていたそうです。

 

 

 

 

力石の画像

力石

境内の南側、神楽殿の後ろに、奉納された16個の力石が安置されています。

右から「保久屋石」「清龍石」「●●石」「二十七〆目(約101kg)」「四拾貮貫目(約157.5kg)」「二十八〆目(約105kg)」「三十〆目(約112.5kg)」「四拾五貫目(約169kg)」「五拾五貫目(約206kg)」「三十四〆目(約127.5kg)」「四拾五貫目(約169kg)」「五拾八貫余(約217.5kg)」「卅八貫余(約142.5kg)」「六十〆目(約225kg)」「四拾五貫目(約169kg)」「四拾貫余(約150kg)」とあります。

一つ目の保久屋はこの辺りにあった荷車の制作をする店の屋号で、清龍は他所で見かける青龍石や虎石のように神聖さや力強さを表しているのだろう。

 

 

 

 

写真はすべて、2019.7.15 撮影

 

備考

社号 井草八幡宮

別名 遅野井八幡宮

創建 平安時代後期以前

祭神 八幡大神(やはたのおおかみ)

祭日 3年に一度例大祭・神幸祭(次回2020年10月初旬)

    5年に一度流鏑馬神事(次回2021年10月下旬)

末社 新町稲荷神社・三峯神社・三谷御嶽神社・新町御嶽神社・

    三谷稲荷神社・三宮神社・祓戸神社・招神殿・浅間神社

社務所 御朱印・御守授与、御祈祷受付有

所在地 東京都杉並区善福寺1丁目33−1

その他 善福寺市杵島神社を兼務

 

 

境外摂社

 

 

浅間神社

境内の外、通りを挟んだ対岸に鎮座しています。

 

 

 

 

浅間神社の由来は定かではありませんが、かつては八幡宮本殿の西南側にあったといい、昭和五十年(1975)に当地へ移されています。

 

 

 

 

浅間神社の背後に富士塚があります。

この浅間神社と富士塚の延長線上の彼方に、本物の富士山があって遥拝できるようになっているのですが、眼前の御神木と小学校の校舎とが重なり、実際に見ることは叶いません。

 

 

 

 

入場禁止にして手つかずの状態になっている富士塚は、都内にも何件かあるのですが、ここまで自然の丘に帰った富士塚はめずらしい。

 

御由緒

境内掲示より字体改行などそのまま記載

富士塚

こちらの小山は富士塚といって浅間信仰

に由来するものです。

浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富

士権現とも称される木花開耶姫命を信仰

するもので、富士信仰とも言われました。

富士信仰は、集団になって資金を集め、

代表者が登拝する代参制を主流にした富

士講によって発展を遂げていきました。

富士講は、戦国時代末に長谷川角行によ

って創始され、十八世紀半ばから大変流

行しました。講の名称には普通、地名が

付けられる事が多く、井草周辺では昔の

村名でもある 「遅野井」 の頭文字をとっ

て 「丸を講」  (●講) という講が戦前   ※〇の中に平仮名の「を」

まで続いていました。

富士塚は、実際の富士登山が出来ない人

たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、

精神的に少しでも信仰欲を満たすように

造られ、現在も都内に約五十ヶ所あると

言われていますが、この規模の富士塚は

杉並区では唯一のものです。

以前は本殿西南側にあったもので、昭和

五十年に現在地に移築され、塚前の浅間

神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰

ぐことが出来る位置にあります。

旧塚の跡地には小御岳石尊大権現(通常、

富士塚の五合目に置かれる)や庚申塔な

どの石碑が昔日の面影を残しています。

平成十六年正月吉日

井草民俗資料館