「ねじきちの ひとりごと」様より転載です

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1441.html#more



嶋正利さん
嶋正利さん



日心会Bさんからいただいたお話です。
世界初のパソコン用マイクロプロセッサは、日本人の開発だったというお話です。
まず転載します。

~~~~~~~~


普段何気なく使っているパソコンですが、そのパソコンが一般的になる前、日本で「電卓大戦争」と呼ばれる時期がありました。

トランジスタ製のプロセッサーの出現により、それまで複雑な回路構成が必要だった演算機構が、単純なトランジスタの組み合わせで可能になり、かつ小型化できたことから、それこそ雨後の筍のごとく電卓メーカーが出現し、中には田舎の一軒家が工場なんてメーカーもあったそうです。

そのようなメーカーの中に「日本ビジコン」という会社がありました。
この会社が、四則演算だけではなく、プログラムによる汎用性を持つ新たな電卓を開発しようと、当時、まだ会社創設間もない「インテル」にプロセッサーの開発を依頼しましました。

ビジコン側が考えていた回路構成ではトランジスタプロセッサー12個程度を使うものだったようです。
その全ての開発をアメリカのメーカーに打診したところ、これに応えたのが「インテル」だけだったのです。

実は、他の大手のメーカーは、日本の大手の電卓メーカーのバックオーダーを膨大に抱えていて、「インテル」以外は、どこも鼻にもかけてくれない依頼だった。

ところが創設間もない「インテル」は、回路設計に応じられる能力が、せいぜい3個程度しかなく、せっかくのオーダーも、会社の首脳は頭を抱えることになってしまいました。
そんな所に、日本ビジコンから嶋正利という技術者がインテルに派遣されてきます。

さあ「インテル」は困った!!!!!!
何とか誤魔化す!!!!いやピンチを切り抜ける良い方法はないか!?

開発会議の中で、「インテル」の技術者テッド・ホフが、汎用の論理デバイスとしての構想(複数桁の演算処理を、1桁の演算の反復で置き換える事、また、外部機器制御回路を、ソフトウェアによる制御に置き換えること)を提案します。

要するに1個のチップで、全部できればよいだろうという提案です。
ついでに、日本から来た嶋と言う技術者に論理回路の設計までさせてしまいます。

こうして出来上がったのが、軍事用を除けば、世界初のマイクロプロセッサー「インテル4004」です。

このチップには、チップレイアウトを担当したフェデリコ・ファジーンがチャッカリと「FF 」と回路にイニシャルを刻んでしまっていますが、島正利さんの論理回路設計が無ければできなかったものです。

嶋さんは、その後インテルにヘッドハンティングされ、初期のマイクロプロセッサーの傑作と評価される「インテル8080」の開発を主導しますが、この「インテル8080」の回路には嶋家の家紋が刻まれているそうです。

世界初のマイクロプロセッサーの開発に、日本人が大きな足跡を残していることに、同じ日本人として誇りを感じますね。
~~~~~~~~~~

下の写真が、その4040です。
4040への嶋家の家紋は、初期板以外は、削除されているようで、いまではインテルのホームページでも見ることはできません。

ちなみに嶋家の家紋は、丸に三つ引で、これは室町時代から続く足利一門の家紋として多く使われたものです。
丸に三つ引
丸に三つ引


下の写真がインテル4040で、写真ではこの丸に三つ引の家紋の刻印を、写真の左下に見ることができます。
インテル4040
インテル4040


嶋正利(しままさとし)さんは、昭和18(1943)年生まれの戦中派で、今年69歳、いまもまだご健在と伺っています。
ご出身は静岡県静岡市。
静岡県立静岡高等学校を卒業した後、東北大学理学部に進学されています。
専攻はコンピューターとは全然別な化学で、コンピューターは単に好きだったにすぎません。

ところがその「好き」が嵩じて、大学を出て最初に就職したのが日本計算機販売です。
この会社は、いまは社名が変わっていて、東京台東区に本社のあるビジコン株式会社というコンピューター部品の製造メーカーとなっている会社ですが、もともとは元々は旧満州の奉天市に設立された「昌和洋行」という商事会社が母体です。

嶋さんが入社された頃のこの会社は、主に三菱電機のコンピュータの販売代理などを手がけていた。
販売が主な会社ですから、主力はハードと事務ソフトの販売です。
ただ面白いのはこの会社、米国の新興企業モステック社と共同で、ワンチップ電卓用チップMK6010の開発を行っていたのです。

本当はそっちの仕事をしたかった嶋さんは、たびたび開発部門への異動を要求するけれど、さっぱり反応がない。
これでは嶋さんラチがあかないと思ったのか、ついに会社を退職してしまいます。

で、退職して行った先が、なんと静岡県警察の科学鑑識課です。
嶋さん、なんだか突然ものすごく硬派になっちゃった。

けれどやはりコンピューターへの情熱が覚めやらなかったのでしょう。
わずか3ヶ月で警察を辞め、もとの日本計算機販売に復職されています。

この頃、日本計算機販売は、ビジコンと社名を変更しています。
そしてなんと、モステック社と共同でLE-120Aという電卓を開発してしまう。

このLE-120Aというのは、世界初のポケット電卓という触れ込みですが、大きさは新書判の本を4冊重ねたくらいのサイズがある。
ただ発光ダイオードを使用していたり、単3電池を使用したりと、電卓の歴史を切り拓いた画期的な製品でした。

面白いのはこのLE-120A、価格はなんと8万9,800円。
さらに続けて発売になったLE-120Gは、LE-120Aに金メッキを施して「純金てのひらこんぴゅうたぁ」といううたい文句でなんと価格が38万円という高値でした。
この製品は、それなりにオカネモチに売れたそうですから、世の中というのはおもしろいものです。

LE-120G
LE-120G


さてそのビジコン、電卓の開発は子会社で行っていました。
嶋さんはその子会社の方に出向になります。

このころの電卓は、記憶回路のない計算機です。
嶋さんは、これに記憶回路を結びつけ、そこでプログラムを実行することで計算範囲を劇的に向上させようとします。

もうすこし詳しく言うと、当時のコンピューターは、ある程度大型のものであっても、記憶装置はテープに委ね、プログラムはパンチカードや鑽孔テープのような補助記憶で与えられていたのです。

つまり人間で言ったら、やることをいちいち紙に書いて記憶し、計算する時は一桁ずつ筆算していたというようなものです。
嶋さんは、これを全部頭の中で暗算できるようにしようとしたわけです。

で、そのために必要な集積回路を作ろうとした。
嶋さんはそれを企画書にまとめ、社内の了承をとって米国に渡る。
で、起こった出来事が、今日のお話です。

この頃の嶋さんは、まだ20代の若者です。
その若者が単身米国に渡り、昭和46(1971)年4月に、世界初のマイクロプロセッサ「4004」を開発したわけです。

面白いのは、インテルがこの4004の将来性を一目で見抜いたことです。
インテルは、すぐに銀行から借金をすると、ビジコンに開発費を全額返還し、4004の独占販売権を取り戻します。
こうして4004は、インテルから世界初のマイクロプロセッサMCS-4 として同年11月に発表されることになった。

これだけの仕事を成し遂げた嶋さんですが、日本に帰れば電卓会社の子会社のただの平社員です。
会社は嶋さんのなした偉業をまったく理解しない。
夢破れた嶋さんは、この年ビジコンを退社、リコーに転職しています。

そんな失意の嶋さんに、インテルの社長ロバート・ノイスから直接電話がはいったのは、翌年春のことです。
嶋さんは、引き抜かれてインテルに移籍する。

目的は8080の開発のためです。
インテルでは最初の4ビットチップの4004の完成後、すぐに自社の技術陣によって8ビット版の8008の開発を手がけるのですが、命令セットの不備もあって、いかにもパフォーマンスが悪い。
ここはやはり4004開発の立役者のMr.SHIMAでなければ駄目だとなったわけです。

嶋さんの参加により、8080は昭和48(1973)年に完成します。

そしてこれを受けて、さらに上位バージョンとして昭和49(1974)年4月に開発発表されたのが、「インテルZ-80」です。

このチップは、翌年には日本ではNECのPC-8000シリーズなどに搭載され、これ以降、パソコンは家庭や会社の中に数多く取り入れられ、まさに世界にパソコン革命をひき起しています。

ボクなどもPC-8000は憧れで、欲しくてほしくて毎月パソコン雑誌を勝っていた(笑)

ちなみに、嶋さんを失ったビジコンは、ちょうどこの頃、主力仕入れ先の三菱電機のコンピュータ市場からの撤退のあおりを受け、倒産に至っています。
そして会社を再建し、コンピュータ部品メーカーとして現在に至っている。

人は石垣、人は城です。
目的をもって行動する人は強い。

嶋さんは、化学専攻から電子革命をひき起しました。
専門が異なる、いわば畑違いの分野で成功をおさめたのは、なにより「好きだった」からです。

そういう人材に、年齢や経歴に関わらず新しい電卓開発を委ねようとした上司(社長?)は素晴らしいと思います。
けれど結果として、社内の圧力なのでしょうか。
会社は嶋さんの才能を潰してしまった。

もし、ビジコンが嶋さんの才能を自前の開発に活かせることができたなら、いまごろは「インテル入ってる?」というCMではなく、「ビジコンはいってる?」というCMが流れ、世界のパソコン市場をビジコンが席巻していたかもしれない。

実は、年齢や経歴に関わらずその人物の才能をとことん活かすというやり方は、戦前の日本では、むしろあたりまえのようにあったことでした。
満州大豆を切り拓いた
三井物産の
山本条太郎 や、アドレナリンを開発した出光石油の 出光佐三 など、そうした事例は、ものすごく多い。
当時の日本は、人種差別の濃厚な世界の中で、世界中に散って活躍していたのです。

戦後の日本だって、多くの日本人が海外で活躍していると言われるかもしれません。
けれど、一点、大きな違いがあります。
それは、国家観と愛国心を持っていたかいなかったか。
国のために役立つ、という姿勢や意識を持っていたかいなかったか。

ある意味、当時のビジコンはその一点を見失っていたのかもしれない。
結果、目先の利益を追求し、倒産の憂き目にあっている。
(いまは復活し、素晴らしい会社になっています)

わたしたちは、いま、日本を取り返そうとしています。
それは、なにより日本人の才能を活かし、日本人の生活を豊かにし、世界の人々により大きな貢献ができることに繋がるとからです。

それにしても、パソコンの革命に日本人が一枚噛んでいたなんて、なんだか嬉しいですね。