私はいない
という言葉に
なぜ個人は惹かれるのか。
それは
自分が嫌いだったり
現実が嫌だったり
責任逃れしたかったり
頑張ることに疲れ果てていたり
悩みや不安から開放されるかもしれないという
希望を見たり、、、
なんでもいいけど、
『自分』から逃げたいんだよね。
で、この自分が主体の人生ってものを
ストーリーとよんでいます。
ストーリーとは物語です。
見るものと見られるものがある二元(対象)の世界。
プラス・マイナス 良い・悪い
という対局のある世界ね。
で、ここから
それらは実在しているわけじゃない
と言うのはなぜか。
対象が絶えているからです。
これを、
絶対性と言ってるんだね。
個人には自分も現実リアルだけど
それは時間という概念の中の物語なんです。
何かをしている自分が大前提の個人には、
二元から指せないこのメッセージを
想像することはできないんです。
例えば、
「あなたはまだ気づいていない」と、
ここからジャッジが起きたとしても、
ジャッジするということが、ただ起きたというだけで、
個人を批判していないわけです。
でも、個人には不快な反応が起きる場合がある。
それはなぜか。
受け取りてのそこに、なんかしらの信念があるから。
こちらが正しいとする自説を
個人に押しつけているように取られてしまうのも同様。
また、
「誰にも間違いはない、全ては平等であるべき」
というジャッジしない「正しさ」をつかんだ個人からは、
同士(ひとつながり)ではない、あなただけが正しいのはおかしいなどと、批判するという逆転現象は 起きて当たり前なことなんですよね。
だって個人は対局の中(比較)の存在であり
絶対性を知らないからです。
でね、
この絶対性に気付くことを
個人からの解放と言うのです。
気づきが起きて明らかになることは
ストーリーはストーリーでしかない
ということ。
そして、そのストーリーが
どんなに不自由で不快て悲惨なものであったとしても、
愛から出来ているということが
明らかになるんだよ。
ストーリーからの解放。
それは個人が気づくのではなく
既にそーなんだって
ただ気づくだけ。
なにも無かったことに
ただ
気づく、だけ。