ストーリーからの解放 | 歓びのシンフォニー :『私』の先に在る真実 : 非二元・ノンデュアリティ・悟り・覚醒

歓びのシンフォニー :『私』の先に在る真実 : 非二元・ノンデュアリティ・悟り・覚醒

生きづらさとは、今ここに対する抵抗だった。
『私』という夢から覚めること。
ストーリーの外に出ること。
真実はひとつなるもの。
歓びの表現が在るだけ。






私はいない


という言葉に

なぜ個人は惹かれるのか。



それは

自分が嫌いだったり

現実が嫌だったり

責任逃れしたかったり

頑張ることに疲れ果てていたり

悩みや不安から開放されるかもしれないという

希望を見たり、、、


なんでもいいけど、

『自分』から逃げたいんだよね。



で、この自分が主体の人生ってものを

ストーリーとよんでいます。


ストーリーとは物語です。



見るものと見られるものがある二元(対象)の世界。


プラス・マイナス 良い・悪い

という対局のある世界ね。



で、ここから

それらは実在しているわけじゃない

と言うのはなぜか。



対象が絶えているからです。



これを、

絶対性と言ってるんだね。





個人には自分も現実リアルだけど

それは時間という概念の中の物語なんです。




連休は家族サービス。
曇り空の海岸(茨城県鹿嶋市)
魚はまったく釣れないのでハマグリ狩りに😂








 何かをしている自分が大前提の個人には、

二元から指せないこのメッセージを

想像することはできないんです。



例えば、

「あなたはまだ気づいていない」と、

ここからジャッジが起きたとしても、


ジャッジするということが、ただ起きたというだけで、

個人を批判していないわけです。


でも、個人には不快な反応が起きる場合がある。


それはなぜか。


受け取りてのそこに、なんかしらの信念があるから。


こちらが正しいとする自説を

個人に押しつけているように取られてしまうのも同様。




また、

 「誰にも間違いはない、全ては平等であるべき」

というジャッジしない「正しさ」をつかんだ個人からは、

同士(ひとつながり)ではない、あなただけが正しいのはおかしいなどと、批判するという逆転現象は 起きて当たり前なことなんですよね。



だって個人は対局の中(比較)の存在であり

絶対性を知らないからです。




でね、

この絶対性に気付くことを

個人からの解放と言うのです。







ラッキーなことに最上階の部屋に泊まれた〜♪




気づきが起きて明らかになることは


ストーリーはストーリーでしかない

ということ。


そして、そのストーリーが

どんなに不自由で不快て悲惨なものであったとしても、


愛から出来ているということが

明らかになるんだよ。




ストーリーからの解放。


それは個人が気づくのではなく

既にそーなんだって

ただ気づくだけ。



なにも無かったことに

ただ

気づく、だけ。