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 2016年12月4日(日)
 このところ私の通っている韓国語クラスでちょっとした企画があり、この1ヶ月間ほどその準備作業を担当させられてドタバタしているうちに、今年もまた1年の最終月である師走になってしまった。どういう訳か夏が完全に終わりを告げる10月頃から年末にかけての時の流れの速さには(むろんこんなものは単なる個人的な感覚でしかないのだが)毎年のように唖然とさせられる。


 この「企画」なるものを進めていく上で最大の障害となったのは全くやる気のない人たちの非協力的で自己中心的な態度である。所詮無料の講習だという気持ちもあるだろうし、別にやりたくもない企画に時間を割かれるのが嫌なのは分からないでもないが、おそらく欠席率が一番低いという理由で無理やり担当にさせられた私とて別段したくてやっている訳ではなく、ふだんから世話になっている区の職員の人たちに対する義理と感謝、そして無料の韓国語講習が存続されるため何らかの実績作りをしておくことが、今後韓国に移住してくる人たちにとっても有益かも知れないと思ってのことである。


 しかし講習生の多くは国籍の違いにかかわらず、決まって「忙しい」という理由でこちらが連絡をしても返事すら寄こさない場合もあり、協力を求めても無視するか甚だ非協力的で、実質ほとんどひとりで準備作業を進めるしかなかった。特にこのクラスを運営している某センターの依頼で全員にあるものを提出してもらうよう頼んだところ、中にはすぐに協力してくれる人もいるにはいたが、一方で何人かで示し合わせた上で(私には話もせずに)直接センターに苦情を言う人間すらいて(あえて書くが何人かの日本人女性たちである)、なんでこんな人たちのために膨大な時間を費やさなければならないのかと慨嘆するしかなかった(そしてこういう人たちに限ってふだんの「外ヅラ」は極めて良く、「日本人は本心で何を考えているか分からない」という否定的なイメージを強化するのに大いに役立っているという訳である)。


 ともあれ件の企画は11月末で一応私の手を離れ、あとは成果物(韓国では結果物と言うことの方が多い)が完成するのを待つだけなのだが、一年の終わりに改めて人間の自分勝手さと自己中心ぶりを存分に「勉強」させられて、もともと私の性癖であると言っていい人間嫌いがますます進行したことだけは間違いない。

 そうした個人的な話とは別に、韓国の大統領をめぐるスキャンダルは、国民向けの3度目の談話で大統領自らが事実上の早期退任を宣言したことで一つの山場を越えるだろうと思われたものの、退任時期の決定を国会に丸投げした上、一私人の国政関与問題や特定財団への利益供与問題に関して直接的関与を否定したことからかえって反撥を招き、大統領批判の流れはやむところを知らない状態である。野党主導による弾劾手続きも進行中であり(もっとも素人目にはこの弾劾訴追案はどうにも出来が悪いように思えてならないのだが・・・)、この週末も6度目となる大規模デモが全国各地で繰り広げられるなど、事態が収拾する兆しはまったく見られない。

 テレビや新聞の報道も引き続きこのスキャンダル関連一色といった状況だが、一連の報道をざっと見ているだけでも、韓国メディアに対する違和感や不信感は改めていや増すばかりである。たとえ今回のスキャンダルを暴きたてたのもまた韓国メディアだったとしても、そもそも大統領とこの「知人女性」との「親密な関係」はこれまでも知られていたらしく、もしメディアがこれまで報道をあえて自粛してきたとすれば、今回の暴露も韓国メディアの手柄とばかりは言えないだろう。
 大統領に対する世論の批判の高まりとともに、これまで大統領や政府を散々持ち上げてきたはずの保守メディアですら、なんの「自省」もしないまま猛然と大統領批判を繰り広げるようになり、「大統領やその側近たち=悪」、「示威行動で退陣を求める国民=善」といった、余りに単純かつナイーブな対立構造を前面に出して「無辜の国民」像を作り上げようとしているのには呆れかえるよりない。

 デモ参加者の人数を巡る報道ひとつとっても、当初から韓国メディアにおいては主催者側発表の多分に水増しされた100万だの190万だのといった過大な人数が独り歩きしており、基本的に警察発表による控え目な人数の方を報じた上で、主催者側発表の人数を補足する日本のメディアとは対照的である。

 今や週末の恒例と化したデモ現場を中継するニュース番組でも、やはり散々大統領を持ち上げてきたはずの保守系テレビ局ですら、アナウンサーが興奮した声で大統領をあからさまに批判してみせたりして、上記の「大統領=悪」、「民衆=善」という分かりやすい対立図式を視聴者に刷り込もうという姿勢があからさまに見て取れる(そしてむろん当のメディア自身は、いつでも「正しき側」にあるという訳である)。

 さすがに主催者側発表と警察発表の人数の大きな差に違和感を抱いてか、主催者側発表の人数を検証してみせたメディアもあったが、それすらも私には、「決して水増しされたものではない」という「結論」ありきの、信憑性に乏しい検証だとしか思えなかった。

 挙げ句の果てには、多数の市民による今回の「平和的なデモ」は海外メディアから驚異と称賛の目で見られているといった、いつもながらに的はずれな自画自賛の記事や、これまたいつもながらに「諸悪の根源は日本にあり」という論法なのか、「親日派」批判や「卑日」(©日経の鈴置高史氏)の記事が次々と登場するに至っては、呆れるのを通り越して韓国メディアにはやはりまともなジャーナリストがほとんど存在しないのではないかと思わずにいられないでいる。
 自国の大統領が引き起こしたスキャンダルであるにもかかわらず、かの「憎っくき」アベも、次の進歩派政権が日韓間の慰安婦合意や軍事情報協定を破棄するのではないかと「にわかにあたふたし始めた」などと、まるで自国政府が他国と正式に結んだ合意や協定を一方的に破棄することを奨励するかのように嬉々として報じているメディアすらある(言うまでもなく政府のやることには何から何まで反対してみせる「進歩系」メディアである)。

 少しでも良識ある国民であれば、およそ「国家」としての体をなしていない自国のそうした状況をむしろ深く恥じ入るしかないはずなのだが、国際政治や外交に対するこうした軽視や侮蔑を臆面もなく書きつけられる厚顔無恥ぶりにはただただ恐れ入るよりない。

 そもそもふだんから日本(人)に向かって、かつでの戦争責任を軍部や天皇に押し付けて、自分たちは「被害者コスプレ」を演じているなどと揶揄・批判してきた韓国メディアや韓国(人)が、いま全国民をあげてやっていることはまさにこの「被害者コスプレ」でしかないとは言えないだろうか。民主的な直接選挙によって国民自らが選んだ大統領がスキャンダルを起こして失脚することは、すなわち国民の選択自体が間違っていたということであり、「騙された」とか「裏切られた」などという子供じみた論法で自らを「無辜の民」のように擁護しようというのは、さすがに無責任の謗りを免れないだろう。
 「海外から絶賛」と同じ流れで、もともと「無辜なる市民」を悪辣なる「国家権力」と対比させて偶像化しようとする傾向の強い進歩系メディアでは、例えば以下の寄稿記事(http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/25806.html)にも見て取れるように、デモに参加した「韓国国民」のことを「真に偉大だ」などと褒め上げて英雄扱いするようなのだが、しかしこうした行為は結果的に国民たちを自己陶酔へと導き、「自らの選択」が誤っていたことを自覚・自省させる動きすら捻り潰してしまいかねない罪深い行為であると言えるだろう。

 そうでなくともここに来て、英国のEU離脱決定やトランプ大統領誕生など、ポピュリズムによって先導された「民主主義」のほころびや限界が露呈しつつある昨今である。「市民」や「民衆」といった言わば「有象無象」の集団が、一時の感情に駆られて闇雲に行動した時にどれだけ無思慮で剣呑な結果を導き出してしまうかということを、今ほど痛感させられたことはなかったと言ってもいい。たまたま先般再見したチャップリンの「ライムライト」のなかにあった、いささか説教くさい次のような台詞を、私はいま改めて思い返しているところでもある。
 「I want to forget the public.(...) Maybe I love them, but I don't admire them. (...) As individuals, yes. There's greatness in everyone. But as a crowd, they're like a monster without a head that never knows which way it's going to turn. It can be prodded in any direction.」
 
 むろん私は民主主義やデモ活動、市民運動自体を否定するつもりはない。ただ自分たちは安全な「正義」の側に身を置いた上で、魔女狩りでもするかのように「悪者」を容赦なく指弾する一方で、過度に美化された「善良な大衆」像を対置させ、出来の悪いハリウッド映画ばりの単純な善悪二元論的世界観に基づく報道に違和感を抱いているだけである。
 あるいは特定の「悪者」を諸悪の根源ででもあるかの如く寄ってたかって叩き、「善」や「正義」という美名のもとに自らの行為に酔いしれているような集団に対して恐怖心を覚えているだけである。それは私にイエス・キリストの処刑や、ウィリアム・フォークナーの小説に出てくるような集団リンチのことを想起させる。


 そして上にも書いたように、民主主義体制のもとで国民自らが大統領を選んだ場合において、当の大統領が不正や不義をなしたとき、大統領ひとりを「生贄の山羊」として処断してしまえば、彼(女)を選んだ国民自身は免責されるなどという虫の好い話があるだろうか。
 さらに大統領に100%責任があるとして、現行法制下において自ら辞任しようとしない大統領を罷免しうる方法は弾劾手続きのみであって、市民が蜂起して大統領府に押し寄せて退陣を迫ることではない(それでは前近代的な「人民裁判」と大して違いはない)。

 韓国メディアが自画自賛するような「成熟した民主主義」が本当に存在するのであれば、如何なる手間や時間がかかろうとも、粛々と弾劾手続きを進めて大統領を法的に退陣させるべきなのである(むろんその手続きを実際に行うのは国会議員たちの仕事であるが、問題なのは当の国会議員にも確固たる理念や倫理観がある訳ではなく、時々刻々の世論の動きに目配せをしながら自分たちに最も都合の良い言動を選択するべく虎視眈々としていることである。そうした優柔不断かつ狡猾な彼らの態度もまた、市民たちの示威活動の拡大を助長する原因となっていることは否めない。要するに国会議員たちも国民からの信頼を少しも勝ち得てはいない訳である)。そうした手間や面倒もまた、民主的法治国家において国民自らの責任で大統領を選んだことに対する代償のひとつだと言えるだろう。

 真に「民主的」な国民がなすべきことは、「魔女」を吊し上げたり「生贄の山羊」を屠ることではなく、そうした無能な大統領を選んでしまった自分の過誤や責任を認めた上、これまでも連綿と繰り返されてきた権力者の暴走や、「身内」の優遇や重用などといった悪しき社会的慣習を、法改正などの正式な手続きによって改めていくことだろう。

 ヨハネ福音書の「姦淫の女」ではないが、いま大統領を真っ向から指弾している人たちのなかで、自分自身のみならず、親戚や友人などの職権濫用によって如何なる利益も得たことのないような人、あるいは如何なる利益を得ようとしたこともないような人がどれだけいるだろうか(これには例えば友人が経費精算用の会社のクレジットカードで食事をおごってくれたような場合も当然含まれる)。
 イエスは律法に闇雲に固執して罪人を処罰しようとするファリサイ人や律法学者に向かって「汝らのうち罪なき者が(姦淫を働いた女に)まず石を擲て」と言ったが、この言葉は他者に対する愛や寛容の重要性を説くものであるとともに、他者を罰するより前にまず自らにこそ厳しくあれという戒めでもあっただろう。もし大統領による職権濫用や身内の優遇を指弾し否定するのであれば、当然一人ひとりの国民自らもあらゆる職権濫用やコネによる優遇を拒否し、その根絶に努めなければならないだろう。

 なによりも「身内(우리=ウリ)」と「他者(남=ナム)」とを厳然と分け、身内には徹底的に甘い汁を吸わせる一方、他者には非情なまでに冷たく対するような行動様式は韓国社会に根付いた宿痾であり、もし今回も「生贄の山羊」が屠られることで「ケリ」がついてしまうのだとすれば、結局新たに選ばれた大統領のまわりでも再び同じような不正や不義がなされ、任期切れが近づいてレームダック化した大統領が糾弾される「恒例行事」が繰り返されるだけだろう。

 部外者の私からすれば、今回のスキャンダルにしてもこれまでの大統領たちの末路と同じく既視感を覚えさせるものでしかなく、武力によって国民を弾圧・統制してきたかつての大統領たちと比べて、今回の大統領の失政がそれほど重大なものなのか、正直全くピンと来ないのである。
 1987年の民主化以降最大の規模だと言われる今回のデモにしても、韓国メディアが称賛するような綺麗事ではなく、日々の生活への不満や将来に対する不安が一時的に爆発し、その捌け口を求めた人々が街頭に繰り出しているように私には思えてならない。確かに暴力行為を伴わない秩序だった平和的なデモではあるのかも知れないが、しかしその本質は(上にも書いたように)イエス・キリストを「処刑せよ」と叫んだエルサレムの民衆と同じようにしか見えない。自分たちを「善」の側に置いて、「悪」の象徴としての大統領やその側近たちを「生贄」として差し出して「悪」をこらしめた気になり、結果的に自らを都合よく贖罪しているようにしか思えないのである。

 そうした流れには、メディアがいたずらに民衆を煽り立てるばかりで、本来の役割を怠っていることも影響しているだろう。大統領による権力濫用や失政がなにゆえに韓国において連綿と繰り返されるのか、そのような不義をなすような大統領をなぜ自分たちは選んでしまったのか、そして明らかな失政を犯した大統領をなにゆえにすみやかに退陣させられないような法体制になっているのか(言い換えれば、国民が大挙して大統領府に押しかけるなどという「法治」を軽視した「非近代的」な仕方でしか退陣へと導き得ないのか)といったことを自己批判的に問いかけ/冷静に分析し、現行法制による制限下で取るべき最善策や、将来同じことが繰り返されないための改善策を、為政者のみならず国民一人ひとりに向かって具体的に示すこと――それこそがメディアの本来的な役割であるはずである。


 しかし実際に韓国メディアがしていることは、(上記の繰り返しになるが)自分たちは安全圏に身を置きながら、「絶対悪」や「絶対的な敵」を徹底的に批判し吊るし上げることで、世論を必要以上に撹乱し扇動することでしかない。そして英国のEU離脱やトランプ大統領を選んだ人々と同じく、自分たちの利益や利権を阻害する既成勢力への不満を表明しているだけの「民衆」をいたずらに持ち上げることで、彼らを自己陶酔という思考停止状態に導き、「自省」や「自己変革」の道から遠ざけてしまっているのである。

 「社会の木鐸」という言い方が韓国でも一般的なのかどうか分からないが(国立国語院による標準国語大辞典の「목탁(木鐸)」の項には「新聞や通信、放送局、雑誌、出版のような言論機関をさして人々は社会の木鐸と呼び・・・」という用例が一応あるにはある)、これでは「木鐸」どころか単なる「扇動者」でしかないと言っていいだろう。

 では日本はどうなのかという話は此処ではあえてしない。だから上に書いたことが「部外者」による極めて無責任な放言でしかないことは自分でも承知しており、今後このような話は二度と繰り返さない予定である。


 最後に1点だけ、11月29日の大統領談話のなかにあった「저는 이제 모든 것을 내려놓았습니다.」という言葉に少しだけ触れておきたい。
 直訳すれば「私は今やあらゆることを下ろしました」という意味の言葉なのだが、これを日韓のメディア各社(一番最後だけは個人のブログからの引用だが)は実にバラバラの意味に訳していて気になったのである。ちなみに原文にある「내려놓다(おろす)」という単語を、上記の標準国語大辞典は「①上にあったり持ったりしているものを下に置くこと。②汽車やタクシーなどが人をある地点に運んでやること」と定義している。
 メディアによるこの文章の日本語訳は、ざっと調べてみたものだけでも以下の通りである(いずれも各メディアのウェブサイトより引用)。

 聯合ニュース・朝鮮日報「私はもう全てを下しました」
 ハンギョレ「私はもう全ての覚悟を決めました」あるいは「何もかも手放した」
 中央日報「私はいま全ての荷を降ろした」
 共同「私はもはや全てを手放した」(毎日新聞はこの共同通信の記事を使用)
 ソウル時事「私は今や、すべてを諦めた」
 産経「私はこれですべてのことをお伝えしました」
 日経「すべてを手放した」
 朝日「私はもう全てを手放しました」
 NHK「私はいま全ての荷を降ろしました」
 ハフィントンポスト「私は今、すべてのものを降ろしました」
 シンシア・リー「私は今、すべてを降ろしました(思い残すことはありません)」

 これらの訳文のうちどれが一番原文のニュアンスを正しく伝えているのだろうかと、純粋に語学的な興味からあれこれ調べていたら、「中央日報」のコラムにこんな文章があるのに気づいた。

 「すべてを下ろしたというのに何を下ろしたのかわからない。間違っていたというが何を間違っていたのかわからない(모두 내려놓았다는데 뭘 내려놓았는지 모르겠다. 잘못했다는데 뭘 잘못했는지 알 수가 없다)」(https://japanese.joins.com/article/068/223068.html?servcode=100%C2%A7code=120&cloc=jp。韓国語原文はhttp://news.joins.com/article/20944344←リンク切れ)。
 どうやら此処で大統領が正確に何を言おうとしていたのかは韓国のネイティヴにとってすらはっきりしないようなのである。これだから外国語の学習は難しい。


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 さて、珍しく堅苦しい話題に終始してしまいそうなので、最後にどうでも良いことをひとつ。上に掲げた写真である。
 これは韓国語で「닭발(タクパル)」、つまり「鶏の足」である。日本でも「もみじ」と称して食べる向きもあるようだし、中華圏では飲茶(ヤムチャ)などでもよく使われる部位らしい。韓国でも比較的ポピュラーな食べ物のようで、これを辛く炒めておつまみとして食べたりするようである。


 飲食店や屋台などでは骨や爪のついたまま出てくるものを、皮(?)の部分だけ齧り取るようにして食べるらしいのだが、上の写真のものは鶏の足と辛いソースをセットにして売っているもので、骨や爪はきれいに取られていてそのまま丸ごと食べられるようになっている。


 鶏の足はコラーゲンが豊富で健康に良いらしいという話に乗せられて、我が家でも先日初めてこのセットをネット・ショッピングで買ってみたのだが、なにせ見ての通りの見た目である。家人は生きている鶏を思い出してしまって居たたまれないと、なんとか何口か食べたみた末に放棄してしまい、私は私で胃弱のために辛い食べ物が食べられないこともあって、残った鶏の足をどうやって調理したらいいか思案しているところである。

 幸い辛いソースは別になっているため鶏の足だけを料理に使うことが出来るのだが、この種の「ゲテモノ」の多くがそうであるように、見てくれだけでなく味にもかなり癖と臭みがあるので、うまく調理しないとすんなり食べられそうにないのだ。


 試しに肉じゃがやカレーに使ってみたものの、肉じゃがでは臭みがもろに出てしまって正直まずい。カレーは香辛料のおかげでまだマシではあるのだが、私はやはり胃弱のせいでカレーも出来るだけ食べないようにしている上、ただでさえトロミのかかったカレーが、コラーゲンたっぷりの鶏の足のせいで、一晩置いて冷えてしまうとガチガチに固まってしまい、焦がさずに温めなおすのにかなり苦労した。


 そもそもコラーゲンは経口摂取では体内に吸収されづらく、美肌や骨粗鬆症などに効果があるかどうか科学的にも明確には解明されていないようで、単なる精神的な慰め程度の効果しかないようである。私はこの種のゲテモノは決して嫌いではないし、モツ煮込みのような濃いめの味付けにしたら案外美味しいかも知れないと思ってもいるのだが、牛蒡やコンニャク、大根など、ふだん我が家ではあまり使わない材料を買わなければならないこともあって(もちろん入れなくても構わないのだが、やはりこれらがないと煮込みを食べている気がしない)、未だに実現しないまま大量の鶏の足が冷凍庫のなかで眠っている状態である(これを書いてから鶏の足とネギだけで煮込みを作ってみたのだが、やはり独特の臭みが強い上に鶏の足になかなか味が染み込みづらいこともあって、正直今ひとつの出来だった)。

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 この間に読んだ本は、横溝正史「スペードの女王」のみ(他にもKindleの期間限定無料サービスで「深夜食堂」の原作マンガを1巻から3巻まで読んだりもしたが)。
 夏になるとなぜか横溝正史の作品が読みたくなると以前も書いたことがあるが、Kindleで安く売られていたこともあって夏頃から読み始めたものの、舞台設定にしても推理手法にしても今ひとつなせいもあって、とうに夏が過ぎて冬に入ってようやく読了出来た。「犬神家の一族」、「獄門島」、「八つ墓村」、「悪魔の手毬唄」、「本陣殺人事件」などの名作と比べてしまうと極めて凡庸な出来で、読み終えたばかりだというのに既にその内容すら忘れ始めている始末である。

 この間に見た映画は以下の通り。

 まず先日鑑賞した山田洋次監督の「虹を掴む男」に出てきた映画作品を2本。


・「かくも長き不在」(アンリ・コルピ監督) 4.0点(IMDb 7.2) テレビ録画したものを再見。
 大学の授業で仏語のシナリオを読まされて初めて知った作品であり、当時授業でも映画を見せてもらった記憶があるのだが、中年夫婦の関係や人生の機微など理解できるはずもない若造にとっては、必ずしも深い感銘を与えてくれるような作品ではなかったようである。
 「虹をつかむ男」では、地方の名画座館主を演ずる西田敏行が身振り手振りを交えながら実に感動的にこの作品を紹介するのだが、その後実際に映画を見た(劇中の)観客たちの反応は極めて消極的なもので、当の西田敏行さえも上映中に退屈の余りか居眠りしてしまうのである(こういうところは、斜に構えた「シネフィル」からは一歩距離を置いているという意味で山田洋次らしいと言えるかも知れない)。
 カンヌ映画祭で最高賞を取り、1964年度のキネマ旬報「外国映画ベスト・ワン」にも選ばれるなど世評高いこの作品は、年を取るにつれて徐々に私にも「効いて」きて、今ではフランス映画史に残る傑作のひとつと呼ぶのにも全く躊躇しないが、しかし日本では未だにDVDも発売されておらず(もっとも本国フランスでも昨年になってようやくDVDが発売されたに過ぎない)、私の持っているのもかつてテレビで放送されたものをVHSに録画して、その後DVDに移しかえたもので、画面も音質もひどく悪い。ちなみにやはりクオリティは低く字幕もついていないものだが、Youtubeでこの作品を視聴出来る→(https://www.youtube.com/watch?v=_vH8Ihxm9ms ←その後、視聴不可能になってしまった。しかし2018年には、日本でもめでたく「デジタル修復版」と称して、DVDとBlu-rayが発売された)。
 この作品のシナリオは、デュラスの代表作のひとつである小説「モデラート・カンタービレ」を書くきっかけになったと言われる(愛人?)ジェラール・ジャルロとの共作であるが、後に書かれた自伝的小説「苦悩」と同様、この作品にはデュラスの元夫で、ナチスの強制収容所に収容されたことのあるロベール・アンテルムの体験が反映されているに違いない(彼の著書「L'Espèce humaine(人類)」は自らの収容所体験を綴った作品で、未来社から日本語訳が出ている)。→★
 映画そのものも傑作だが、監督のアンリ・コルピによる作詞、ジョルジュ・ドルリューの作曲、コラ・ヴォケールの歌による「三つの小さな音符」(Trois petites notes de musique)も実に印象的である。個人的には、7月14日(パリ祭)のシャンゼリゼにおける軍隊行進やその晩の花火の映像から始まる冒頭部分、とりわけ「三つの小さな音符」(ただし音楽のみ)にのって俳優やスタッフの名前が上下左右から現れては消えていくクレジット・タイトルが訳もなく好きで、この部分だけをたまに見返すことがある。
 イタリア訛りの強いアリダ・ヴァリのフランス語は耳障りですらあるのだが、浮浪者の男のなかにかつての夫の姿を必死に見出そうとする彼女の執拗かつ強引な情念や苛立ちが、その癖のある発音によって巧みに表現されていると言っていいだろう。浮浪者の口ずさむ「セビリアの理髪師」のアリア「中傷とはそよ風のようなもの」が繰り返し用いられることで、主人公がイタリア人女性として設定されていることの意味合いも次第に分かってくる。

★(追記)その後ちくま文庫版「かくも長き不在」(阪上脩訳)を参照する機会があったが、巻末に収録されている菅野昭正氏の「マルグリット・デュラスという女流作家」のなかで、この映画の主題がある三面記事から取ったものだという作者の言葉が引用されており、以下のような話が付け加えられている。
 「昔ブッヒェンヴァルトの収容所に送られて記憶喪失症になったご主人が、街を通ってゆく姿を見たと信じこんでいるレオンティーヌ・フルカードという女のひとのことを、覚えてらっしゃらないかしら?」
 「そのご主人はなにも覚えてませんでした。でも、それいらい、彼女は自分のご主人が見つかったものと考えてしまったんですね。なんとかして、共同の生活を取りもどそうと努力したわけです。するとある日――この仕草の意味はまるで解釈がつかなかったのですけど――彼がバスの前に立ちはだかって、両腕を十字形に組みあわせる仕草をしたんです。それで、彼はサント・アンヌの病院へ送られることになりました。そうして、奥さんはいまでも相変らずそこで会いにいっているんです。男のほうは昔の妻だと認めてないのに、彼女は頑としてそう信じこんでいるんですよ! その男は永遠に彼女のご主人だというわけなのね! 彼女はご主人に再会したというわけなのね。どう、びっくりするような話でしょ?」

・「ニュー・シネマ・パラダイス」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督) 3.5点(IMDb 8.5) テレビ録画したものを再見。124分の「国際版」。
 やはり頭でっかちだった若い時分、私はこの甘ったるく懐古趣味的な作品に反撥を覚えたものだったが、年をとったせいか今回はさほど抵抗を覚えずに見ることが出来た。以前はあざといとしか思えなかった最後の「禁じられた映像」も実に気の利いた結末だと感じられたし、主人公のロマンスに深入りしないままあっさりと終わるのがなによりも良かった。
 尺の長い「完全オリジナル版」では主人公の恋愛により比重が置かれているようなので、(他にもフランス映画の「レオン」などの例があるが)下手に完全版などと銘打ってあれこれ詰め込まれたヴァージョンを見て失望させられるよりは、適度にカットされて感傷やロマンティシズムもほどほどの短いヴァージョンを記憶を留めておく方が賢明かも知れない。

 先日に続いてウディ・アレン作品を何本か鑑賞。


・「マジック・イン・ムーンライト」(ウディ・アレン監督) 3.0点(IMDb 6.6)インターネットで視聴。英語版
 エマ・ストーン演ずる若い霊能力者が本当に霊感を持っているのかと思わせるところまでは面白いものの、種明かしが始まった途端に余り出来の良くないウディ・アレン作品のパターンに戻ってしまう。むしろ最後までファンタジーで押し通した「ミッドナイト・イン・パリ」のような作品の方が、理に落ちることなく純粋に楽しめる。


・「スターダスト・メモリー」(ウディ・アレン監督) 3.0点(IMDb 7.4) 英国版DVDで再見
 ウディ・アレン版「8 1/2」と言うべき作品で、自作再創造の試みでもあるが、フェリーニ作品ほどの深刻さはない。同時にフェリーニやベルイマンなどと比較しての、自らのキャリアに対する懐疑やよりシリアスな作品への憧憬・志向が見て取れもする。


・「マンハッタン」(ウディ・アレン監督) 2.5点(IMDb 8,0) 日本版DVDで再見
 アレンのナルシシズムが全開になった作品であり、この前見た「スターダスト・メモリー」同様に美しい白黒映像と、その映像がもたらすマンハッタンの幻想的な雰囲気に眩惑されてこれまで高く評価してきたが、今回見直してみるとひどく失望させられただけだった。
 ナルシシスト・アレンの本性が正直に晒しだされている作品であり、そうした本性を自分自身で冷静に(ただし自己批判的にではなく)眺めてもいるのだが、結局そこに見て取れるのは限りなく自己中心的で甘ったれた中年男の自己愛だけである。この作品の鑑賞とほぼ同時期に太宰治の短篇「道化の華」を再読する機会があったのだが、一見自分を冷静に見て嘲笑っているようでいて、しかし実際にはそうした自分自身にさえ陶酔しているような偽善的ナルシシズムを両者に感じてしまって仕方なかった。

・「ヒメアノ~ル」(吉田恵輔監督) 3.5点(IMDb 7.5)インターネットで視聴
 同じ監督による「麦子さんへ」とは全く正反対と言っていい、少しも救いのない物語である(原作は「ヒミズ」などで知られる古谷実の漫画作品)。途中までは飄々とした軽い恋愛コメディかと思わせながら、中盤から猟奇殺人犯を扱う物語に一気に持っていく手法は見事で、作品のタイトルが出るタイミングも奇抜で印象的である。結末の犯罪を巡る説明部分が紋切り型ではあるが、ほとんど「地」なのではないかと思わせるアイドル・森田剛の迫真の演技も特筆もので、間違いなくここ数年の日本映画のなかでも突出した問題作である。ただし、実際の犯罪や世相を反映させているとは言え、過激な暴力描写にあふれるこの種の映画が近年多過ぎることには疑問を覚えざるをえないでいる。

 そして黒沢清作品を2本。


・「クリーピー 偽りの隣人」(黒沢清監督) 2.5点(IMDb 6.4)インターネットで視聴
 最近の韓国映画や上の「ヒメアノ~ル」もそうだが、警察官が実に簡単に犯人を取り逃がしてしまったり、無防備のまま犯人に殺されてしまうような場面が多く、そうした露骨な作為やリアリティの欠如によって作品自体に興味を失ってしまうことが多い。
 この作品の原作はしばらく前に読む機会があったが、今回は内容的にもかなり変更が施されていて、犯人の不気味さや作品に漂う危うさという意味では原作の方が勝っているように思われた。心理的ホラー作品というよりもホラー作品を装ったコメディと言った方が妥当かも知れない。しかも余り笑うことの出来ないコメディである。


・「岸辺の旅」(黒沢清監督) 3.0点(IMDb 6.3)インターネットで視聴
 ある意味でまっとうなファンタジー作品だが、宇宙や「無」に関する主人公の「講義」によって凡庸なメッセージ色が露骨に出てしまっていることもあり、観客の予想を覆すような訳の分からなさが魅力であり本領だと言っていい黒沢清の作品にしては物足りなく思えてしまった。

 ヒッチコック作品とその関連作を何本か視聴。


・「ヒッチコック」(サーシャ・ガヴァシ監督) 3.0点(IMDb 6.8)インターネットで視聴。英語版
 前半は「サイコ」製作の舞台裏を描いていて大いに期待させたが、途中からヒッチコック夫婦の危機を巡る内容になってしまって失速しはじめてしまう。最後は妻アルマの献身をヒッチコックが称えるというありきたりな夫婦愛の物語に終わってしまうが、全体にそつなくまとめてはいる。鑑賞後も「サイコ」を見直したいと思わせないところがこの作品の最大の欠点か。


・「サイコ」(アルフレッド・ヒッチコック監督) 4.0点(IMDb 8.5) 日本版DVDで再見
 とは言えやはり再見してみることにした。初見時ほどの衝撃はむろんないものの、ヒッチコックの映像技法やバーナード・ハーマンの音楽には相変わらず魅了される。上記の「ヒッチコック」によれば、ヒッチコック自身は有名なシャワー室での殺害場面に音楽をつけることを望んでいなかったようだが、結果的にはハーマンの音楽がこの映画全体の緊張感やサスペンス性を醸成する上で(ある意味ではヒッチコック自身の映像以上に)大いに寄与していることは間違いなく、ハーマンの音楽なくしてこの作品の成功はありえなかったとさえ言えるだろう。


・「サイコ2」(リチャード・フランクリン監督) 3.0点(IMDb 6.4) インターネットで視聴。英語版、字幕なし
 正直全く期待していなかったのだが、途中までは意外と面白く見られた。結末部分でむりやり辻褄を合わせようとして単なるホラー映画に堕してしまっている点が惜しまれる。謎は謎のまま残し、女主人公のメグ・ティリーが死に、アンソニー・パーキンス演ずるノーマン・ベイツが釈放されるところで終えていたら、多少の消化不良感は残ったとしてもまだマシだっただろう。しかし「2匹目の泥鰌」を狙った「キワモノ」作品としては予想ほど悪くはなく、往々にして駄作に終わる続篇ものとしては一応及第点だと言えるだろう。


・「見知らぬ乗客」(アルフレッド・ヒッチコック監督) 3.5点(IMDb 8,1) 日本版DVDで再見
 なんと言っても主人公に唐突に交換殺人を持ちかけてくるブルーノ・アントニー役のロバート・ウォーカーの不気味な存在感が際立っているが、残念なことに彼はこの作品に出演後程なくして早世してしまったそうである。テニスの試合の場面で、観客たちがテニス・ボールを追って首を左右に振って観戦しているなか、ただひとり主人公の方をじっと見据えているウォーカーの姿が実に恐ろしい。


・「舞台恐怖症」(アルフレッド・ヒッチコック監督) 2.5点(IMDb 7,1) 日本版DVD
 今回が初見だが、マレーネ・ディートリッヒ(なんとこの時既に50歳近いのだが、全くの年齢不詳でただただ不気味である)の存在感を除いてしまえば、女主人公役のジェーン・ワイマンも魅力に乏しく、話も全体にもたついて凡庸な出来に終わってしまっている。

・「警察日記」(久松静児監督) 4.0点(IMDb 7.5) 日本版DVDで再見
 点数は多少甘めだが、60年以上前の作品でありながら、人情劇にして群像劇の傑作である。多少情緒過多な気味もあるが、決して甘ったるいハッピー・エンディングで終わることなく、人生の一端を巧みに切り取った佳編に仕上がっている。
 幼くして既に名優の風格を漂わせている二木てるみの演技には、ひねくれ者の私でも涙腺が緩まずにいられない。森繁久彌、三島雅夫、三國連太郎、殿山泰司、伊藤雄之助、沢村貞子、多々良純、そして「小津組」からは杉村春子や東野英治郎、飯田蝶子、十朱久雄など、「黒澤組」からも左卜全や稲葉義男、小田切みき、千石規子(二木てるみも黒澤組に入れていいだろう)など錚々たる顔ぶれが出演しており、これらの俳優たちの多彩な演技を楽しむことも出来る(まだ頬っぺたを膨らませていない若き日の宍戸錠も清々しい演技を披露している)。

 どうやら余り評価の方は芳しくなさそうなものの、この作品には続篇もあるらしいので是非見てみたいのだが、残念ながらこれまでも全くソフト化されたことがないようである。

・「鍵泥棒のメソッド」(内田けんじ監督) 3.5点(IMDb 7.4) インターネットで再見
 今年になって「럭키=ロッキ(邦題:LUCK-KEY/ラッキー)」という題名で韓国でリメイクされたらしい(韓国版の題名には錠=Lock、運=Luck、Lucky、そして鍵=Keyの3つの意味がこめられているようである)。
 初見の時は、立て続けに佳作を撮ってきた監督への期待が大きすぎたためか、今ひとつの出来だと感じてしまったのだが、今回たまたまインターネットで見つけて再見してみたら思いの外面白く最後まで中断することが出来なかった。性格の全く異なる「2つの人格」を演ずる香川照之の演技が実に説得力のある見事なもので、改めてこの俳優の巧みさに感服させられた。

 他にもテレビ作品を幾つか鑑賞。
・「深夜食堂 シーズン4(全10話)」インターネットで視聴
 今シリーズはテレビ放送ではなく、Netflixで全世界配信されたらしいのだが、すぐにインターネットにもアップされていたおかげで視聴することが出来た。各挿話の出来にはバラツキがあるものの、いつもながらの世界観に浸りながら安心して見られる。同時期に公開された映画版の続篇も早く見てみたいものである。

・「山田太一ドラマスペシャル 五年目のひとり」 インターネットで視聴
 山田太一脚本のドラマは出来るだけチェックするようにしているのだが、近年の「星ひとつの夜」や「遠まわりの雨」、「時は立ちどまらない」などの作品はどれも期待はずれで、これも正直あまり期待しないで視聴してみた。しかし今回は久々に山田太一らしい人間の内面を深くえぐるような佳作で、それに説得力ある演技で応えている渡辺謙の巧者ぶりも久々に堪能することが出来た。


・「ありふれた奇跡」 日本版DVD
 以前初回を見たきりで放置してあった連続ドラマなのだが、山田太一脚本ということで思い切って見てみることにした。
 しかしどこかで某お笑い芸人が酷評していたように、時代錯誤としか思えない古めかしい内容と台詞まわしで、やはりすぐに興味をなくして、途中からは他の作業をしながら画面は見ずに音声だけを聴いていた。
 今の時代、此処まで子供や孫に干渉する親や祖父母が実在するだろうかという違和感を抱かせる家族の設定にまずなんのリアリティも感じられない。井川比佐志演ずる、苛立たしいまでにぶっきら棒で我が道を行く頑固な祖父が、最後に突然大変貌(これもまた奇跡のひとつだというのだろうが)してハッピー・エンディングとなるのも空々しく、台詞がひどくまだるっこくて(もっともそれは山田太一作品の特徴でもあるのだが)、ただただ長ったらしいだけの絵空事としか思えなかった。
 思うに山田太一という脚本家は長編よりも単発ドラマの方に向いているようで、名作と言われる「岸辺のアルバム」もだらだらと冗長だったし、放送時には面白く見た「ふぞろいの林檎たち」も今となってはやはり長いだけでまとまりに欠けた作品だとしか思えないでいる。唯一「早春スケッチブック」だけは山崎努の存在感とともに記憶に生々しく残っているが、これも今見返してみたらどう感じるか、正直分からない。
 笠智衆を主役に据えた「ながらえば」「冬構え」「今朝の秋」の3作や、近未来SFモノである「終りに見た街」、単発ドラマを積み重ねた連作モノの「男たちの旅路」、市川森一の脚本で映画になった小説「異人たちとの夏」などの方が、この脚本家の本領が発揮されているように思えてならない。