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 2016年4月13日(水)
 今日は韓国の第20代総選挙(国会議員選挙)の投開票日である。来年末には大統領選挙が行われることもあって、今回の選挙は現政権に対する国民の評価指標となると共に、次代の大統領選びを占う上でも重要な選挙だと考えられている。現大統領を輩出した与党「セヌリ党」に対して、野党第一党の「共に民主党」や、この「共に民主党」から分離して発足した「国民の党」(党の常任共同代表は2012年の大統領選にも出馬した企業家の安哲秀(アン・チョルス))などが選挙区・比例代表を合わせた300の議席を争うことになるが、与党セヌリ党は党内で親・朴大統領派と反・朴大統領派とが対立するなど混乱が見られるなかで、どれだけ票を獲得できるかどうかが焦点と見られている。
 もっとも、韓国国籍を保有していなければ投票権が与えられないため、今回の選挙は私には直接は関係がないのであるが、平日である今日は臨時の公休日となり、韓国語講習も休みとなった結果、家でダラダラと過ごしている(つまりちっともありがたくはないのである)。
 日本では選挙の投票日は大抵日曜日だが、日曜日は安息日として休むキリスト教徒の多いお国柄のせいなのか、あるいは休日に選挙を行うことは国民の休息する権利を侵害するという欧米流を真似てなのか、韓国では平日に選挙を行うことが多い。
 たまたまこの週末に配偶者の実家のある慶尚北道に行く機会があったのだが、ちょうど選挙前ということもあって、人々の話題はもっぱらこの選挙のことだった。歴代の大統領を輩出している慶尚道では与党の支持率が圧倒的に高く、対する全羅道では革新政党の支持率が高いなど、韓国では地域ごとに支持政党もはっきりしていることが多いために、政治論議にも時として地域対立の要素も加わり熱くなりがちである。今回も無条件に第一候補(つまり与党候補)に投票すべしと熱く主張する人がいれば、そうした思考停止的な投票行動に疑義を呈する人もおり、ただでさえ韓国語の聞き取りに四苦八苦している私には、苦行のような時間だった。
 とまれ、選挙が終わっても、今後の政局運営の影響はむろん色々あるだろうが、今のところはせいぜい、ここ暫く選挙カーなどが街なかに繰り出していてうるさかったのが、これから静かになるというくらいの意味くらいしかなさそうである。
 (追記:一夜明けて、与党セヌリ党は過半数獲得はおろか、第一党の座すらをも野党「共に民主党」に明け渡すことになるという大惨敗を喫した。それだけ現政権に対する不信感が大きいということであり、昨年末に日韓間で合意された従軍慰安婦問題を含めて、今後の国会運営に大きな困難が生ずることになりそうである。「国民の党」は第三の政党として一気に浮上し、今回の総選挙によって韓国の政局は大きく変化していくことが予想される)

 先日、会社勤めをしていた時の同僚から久々に連絡を貰い、夫婦で韓国の歴史ドラマにはまっていて、そのうち韓国を訪れるやも知れない旨が書かれてあった。元々日本史好きな同僚だったので、隣国の歴史にもすんなり馴染めるのかも知れない。
 しかし一方の私は、申し訳ないことに元々韓国ドラマには全く興味がない上、国を問わずに歴史そのものに苦手意識を持っていることもあって、残念ながらこの元同僚が触れていたドラマのことも、そのドラマに登場する歴史上の人物についても全く知らず、さすがにそれでは悪いと思って、今度そのドラマを見てみることにすると返事をしたためておいた。単なる社交辞令ではなく、実際Youtubeで視聴できる英語字幕付きの動画をすべてダウンロードしたのだが、しかし未だに鑑賞するところまでは行っていない。
 ついでに自分の無知を少しでも改善しようと思い立って、自宅の書架をあさって韓国・朝鮮史の本を探してみたところ、全4巻の「韓国史オデッセイ」なる韓国語の歴史概説書のうち、2巻が見つかった。しかしこのシリーズ、「李朝朝鮮」篇だけで500ページ超もあり、もう片方の「近・現代史」も400ページ近い大部なもので(我が家にはないが、これに先立つ「神話と三国時代」篇と「高麗」篇が加わって全4巻を成している)、しかも最初のページをざっと眺めただけでも、韓国・朝鮮の歴史に関して基本的な知識すらない私にとっては、知らない言葉が出てきても、それが固有名詞なのか、単に知らない単語なのかすぐに判別できないものが多く(というのも、韓国人なら誰でも知っているような固有名詞にはほとんど漢字が併記されていないためである)、いちいちインターネットで検索してみないと分からないため、とてもそれ以上読み進む気にはなれなかった。
 そこでかなり大昔に日本で買った新書版の韓国・朝鮮史の概説書を取り出してきて読もうと思ったのだが、自宅にある2冊の本はその内容・構成からして極めて対照的なもので、一言で言えばそれぞれの著者のイデオロギーに大きく影響された内容となっているため、やはり読み進める気力を失ってしまった。


 


 1冊目は若くして亡くなった梶村秀樹の「朝鮮史」で(講談社現代新書1977年刊)、専門が韓国・朝鮮の近現代史ということもあってか、約200ページの本のうちほぼ100ページまでが古代から李氏朝鮮についての記述であり、残りの半分が開国や日本による統治期をはさみ、朝鮮戦争や軍事独裁政権を経た1970年代までの記述で終わっている。序章の「私にとっての朝鮮史」には、著者の韓国・朝鮮の歴史に対する個人的な感慨が綴られており、これまた一言で言えば進歩主義者的な左翼知識人のプロトタイプを逸脱するものではない。
 「朝鮮民族には、中国とも日本とも異なる独自の文化伝統があり、しばしば容易ならぬ外圧にふれながらも貫かれてきた力強い発展史がある。そしてその発展を基底で支えてきたのは、単なる英雄的指導者の力ではなく、ユニークな個性と活気に充ちた人間性をもって日々を生き続けてきた朝鮮民衆総体である。(中略)近代百年間そうした発展を阻害・歪曲せんとして外圧を加え続けてきたのはほかならぬ日本であるが、これに抗してもちこたえてきた個々人の生活史の総和である朝鮮民衆史には、密度の濃い想いがぎっしりとつまっており、私たちをうつ迫力がある」
 このブログでも何度か書いたように、私は韓国や北朝鮮に大して興味を抱いている訳ではないものの、しかしいわゆる嫌韓や反韓でもないつもりである。韓国政府や韓国メディアがヒステリックに糾弾し続けている日本の過去の歴史に関しても、韓国政府や韓国メディアの姿勢には必ずしも同調しないものの、自国の歴史だからと言って美化するつもりはなく、むしろその反対に、自国の歴史であるからこそ、より批判的に見なければならないと考えている。
 それでもこの著者のように特定のイデオロギーに凝り固まり、感情的・情緒的な態度でもって「歴史」に対することに対してはやはり「違うのではないか」と思わざるをえないし、従来の学説なり主張なりに反駁するためであるとはいえ、こうした情緒的な文章を歴史の概説書に書いてしまうこと自体、「歴史家」としての適性を欠いているとしか思えない。

 2冊目は、日韓文化比較論などで幅広い著作をものしてきた在日韓国人の金両基(キム・ヤンギ)による「物語 韓国史」(中公新書1989年刊)である。こちらの構成はと言えば、約300ページのうち高麗時代まででなんと250ページを占め、李朝朝鮮が34ページ、そして「日本帝国主義下の朝鮮、そして独立」と題された最終章はわずか6ページを占めているに過ぎない。
 こうしたページ配分を見るだけでもいわゆる「通史」ではないことは明瞭だろうし、有史以前から中世までを中心に採り上げる著者が志向する歴史の方向性も、自ずと見えてくると言っていいだろう。これまた偏見を恐れずに一言で言ってしまえば、著者自身の帰属する民族が誇りうるような「栄光の歴史」なのである。
 そのことは、冒頭部の「建国神話と歴史のあけぼの」と題する、いわゆる檀君神話と呼ばれる建国神話について書かれた部分を読めば明白であり、上の「朝鮮史」と同じく、私はその思い入れや情緒過多な記述にウンザリしてしまって、それ以上本を読み継ぐことが出来なくなってしまうのである(この2冊の他にも、文庫クセジュの「朝鮮史」(李玉)も持っていたはずなのだが、あちこち探してみたものの見つけ出せなかった)。

 そもそも檀君神話というのは、上の梶村秀樹ですら「(その)難点は、それが現存の文献に定着されたのが、ずっと下って高麗後期の僧一然(イリョム 1206~1289)の『三国遺事』であることである」と記している通り、13世紀末という後代に記された文献を根拠にした有史以前の神話である。
 現存する韓国・朝鮮「最古」の歴史書は12世紀半ばに完成した「三国史記」だが、この中には檀君神話をはじめ、古代朝鮮に関する記述もなく、また「三国遺事」が成立した頃の高麗はモンゴル(後の「元」)による統治下にあって、反モンゴルの民族主義的昂揚が見られた時期であり、この「三国遺事」にもそうした民族主義の反映が見られると推察されている。さらに中国の史書にも「三国遺事」中の記述に対応する文献が見られないことから、歴史書としての信頼性に疑義を呈する見方もある。
 檀君神話は、天神の子である「桓雄」(ファヌン)と、人間になることを望んだ熊との間に生まれた「檀君」(タングン)が朝鮮を建国したという、いわゆる「天孫降臨」型の神話の一典型である。しかし著者の金両基は、当初は民間信仰に過ぎなかったこの神話が、民族意識の高まりによって重要度を増してきた作り話だとする日本史学界の流れを批判した上で、「この神話を歴史的事実と読むには少々無理があろうが、わたしは信仰的事実としてとらえている」と記している。
 唯一無二の絶対的・客観的な事実などというものが所詮は理論上のものであり、客観的な歴史記述などというものも現実には存在しえないことは重々承知しているつもりだが、それにしてもこのような荒唐無稽な神話的内容を、歴史的事実と読むには「少々無理があろう」などと曖昧な言い方をし、さらには「信仰的事実」と捉えているなどという訳の分からない物言いには、とても理性的な思考を読み取ることは出来ない。それは言うなれば民族主義というひとつの「信仰」であり、そうした個人的な信仰にもとづく見解を「歴史」というひとつの学問として提示しようとすることに他ならない。
 仮にこの種の神話的記述に、過去の「客観的事実」のなんらかの影響や流用があると仮定しても、そのことを現存する資料や遺跡等によって客観的に示し得なければ、やはりそれはあくまで「神話」であり「作り話」だとするしかない。仮にも「歴史」を扱う書物である以上、こうした個人的・民族主義的な思い入れや、そうあって欲しいという願望などは出来るだけ排除・抑制すべきだろう。

 上の進歩主義的史観にしても結局は同様だが、第三者の冷静な視点から見れば愚かで痛ましいとしか思えないこうした内容を「熱く」語れてしまうところ、そしてそのことに全く自覚的ではないというところが、やはりイデオロギーや民族主義、言い換えれば「宗教」の盲目性であり、恐ろしい部分だと言って構わないだろう。梶村秀樹の「朝鮮史」はさすがに絶版となっているが、金両基の「物語 韓国史」は未だに版を重ねているようで、韓流ドラマによく登場する李氏朝鮮時代の解説本などは色々出ているようだが、より冷静で客観的な視点に基づいた朝鮮・韓国史が新書などで手軽に読めるようになることを期待するしかない。

 今回は、下に点数を載せておいた橋本忍監督・脚本の映画「幻の湖」についても触れる予定だったのだが、なかなかまとまらないので、次回以降改めて採り上げたいと思っている。

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 この間に読み終えた本は、

・赤川次郎「マリオネットの罠」(文春文庫)
 中高生の頃に楽しく読んだ記憶のあるミステリー作品で、今回およそ30数年ぶりに読み返してみた。
 作者の赤川氏が大の映画好きということもあってか、導入部分は黒澤明の「赤ひげ」における狂女のエピソードを想起させるものだが、最後の最後にまでどんでん返しが用意されていて、本格的なミステリー小説というには軽い作風ではあるものの、今読んでもなかなか楽しめる作品ではあり、テレビの2時間ドラマなどにするには向いている題材ではないだろうか。

・半藤一利「あの戦争と日本人」(文春文庫Kindle版)
 編集者相手の談話をまとめたものであるためか、唐突に個人的な思い出話を始める部分も多く、これまで読んできた同じ著者の「日本のいちばん長い日」、「昭和史」、「昭和史裁判」などに比べると散漫で内容も粗雑な印象を払拭できない。冒頭部で簡単に触れられているのだが、これまで著者が数多くの著書をものしてきた「昭和史」の流れの源流を成しているという、幕末から開国までの時代を扱った「幕末史」が読んでみたくなった。

・アルベール・カミュ「ペスト」(新潮文庫)
 これまた数十年前に読んだはずなのだが、細かい部分はすっかり忘れてしまっており、ほとんど初読だと言っていいような読書である。そして初読時と変わらず、特に分かりづらい文章や内容がある訳ではないにもかかわらず、非常に難解な作品であるという印象を受けた。作中で描かれる「ペスト」という伝染病が象徴・示唆するものをあれこれ穿鑿していってもキリがないのだが、ペストの蔓延によって街全体が他の街から隔離されるという極限状態における、いつ病に斃れるか分からない人間たち同士の連帯や友情といった主題を扱うカミュの思考や文章は、「異邦人」などに比べると往々にしてやや感傷的に過ぎるように思えなくもない。

 訳者があとがきで述べているように、「異邦人」が「シーシュポスの神話」とが対を成しているように、この作品もまた「反抗的人間」と対になっているとするならば、この作品にこめられた作者の意図を十全に汲むためには、「反抗的人間」を読み解く必要があるだろう(生憎いまは手元にないので、いずれ日本から持ってきて読んでみるつもりである)。
 宮崎嶺雄の訳は生硬でありながら原文には基本的に忠実なのだが、ところどころ私には意味をうまく取れない部分もあり、いずれ原文で再読してみたいと思っている。昨今の新訳ブームにのって、カミュの代表作であるこの作品も、新潮文庫版の「転落」の新訳を手がけた大久保敏彦氏などによって、若い読者たちに新たな相貌を見せてくれることを願うのみである(この記事を書いた時はうっかりしていて気づかなかったのだが、大久保敏彦氏は10年以上前の2006年に亡くなっていた。カミュの「ペスト」日本語新訳版は、2019年頃から始まったコロナ禍の影響もあって、何種類かが続けて出版された)。

 この間に見た映画は、

・「幻の湖」(橋本忍監督) 2.5点(IMDb 5.9)インターネットで鑑賞
 上述の作品。いずれ別項で採り上げたい(追記:結局その後採り上げないまま時間だけが過ぎ、映画の内容すらろくに覚えてない有り様である)。

・「桐島、部活やめるってよ」(吉田大八監督) 3.0点(IMDb 7.4)
 なにやら映画マニアの間では極めて高評価らしく、原作(私は未読である)を参照しつつ、この作品をベケットの「ゴドーを待ちながら」やサルトルの「嘔吐」などと比較している評もあるくらいである。終始一貫して「不在=空虚」である「桐島」なる人物が「世界」の「絶対的中心」であり(そこでこの桐島を「天皇」だと指摘する評もある)、その空洞によって右往左往する「世界」を描写しているというのである。
 しかしこうした評価は余りに作り手の種明かしに多くを依拠しているようであり、しかもこの種の「ネタ探し」や「謎解き」は牽強付会を含めてやろうと思えばいくらでも可能であり、妄想には際限がない(実際、監督自身は余り映画に詳しくなく、マニアたちの指摘する「影響」や「参照」なども見当違いのものが多いようである)。そもそも作品に込められた意味や象徴が如何に深遠で高邁であろうと、そうした意味や象徴を如何に普遍化して一個の映画作品として作り上げるかが重要なのであって、いわゆる「楽屋落ち」でしかないような「謎解き」にはそもそも私は余り関心がない。
 結局のところ私にはこの映画は可も不可もない作品であるとしか思えないでいる。上記の解釈によればあくまで「容れ物」に過ぎない高校生活の描写も、私にはただただ退屈で(おそらくこの作品を私の高校生時代に見ていたとしても変わらなかっただろう)、なおかつ同じ出来事を複数の視点で捉える手法も必ずしも奏効しているとは思えない。
 作り手の意図だとも言えるのかもしれないが、あちこちに謎めいて意味ありげな要素を散りばめ、その中心である「桐島」という人物についても最後まで描かずに放置するという手法は、玉ねぎの皮を次々剥いていって最後の1枚まで剥ききって、結局そこには何もなかったことが分かった時のような虚しさを感じさせるだけである。
 この作品に熱狂している人たちは、作中でゾンビ映画を撮る映画部の生徒などにも自己を投影させながら、自身の高校生活の喜怒哀楽を想起しつつ、「高校生活」を現実世界の縮図と捉え、そこに「勝ち組」と「負け組」が拮抗するヒエラルキー社会や、偽善的で表層的な人間関係に満ちみちた世界像を投影させて過剰な意味付けをしているように思えてならない。

 

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・「まあだだよ」(黒澤明監督) 3.0点(IMDb 7.5)日本版DVD
 初見時よりは多少評価が上がったが、その多くは香川京子の存在によっていると言っていい。他の俳優たちのオーヴァー・アクションぶりに比べ、香川京子の演技は終始抑えぎみで自然である。実際、彼女は撮影中に黒澤監督からほとんどダメ出しされることがなかったと言う。同じく黒澤明からほとんど演技指導やダメだしを受けなかったという所ジョージの演技も意外と悪くない。むしろ名を成したベテラン俳優たちの演技の方が、黒澤明が求めるままに演じているせいか、大仰かつ不自然でほとんど見るに耐えないと言っていい。
 結局この作品は、年老いた黒澤明が、内田百閒(「閒」は「門」構えに「月」)に自らを投影させて過去を懐かしみ、自分を慰めているような自己満足的な作品だとしか思えない。ユーモラスな(はずの)場面も、俳優たちが先に大声でわざとらしく笑ってしまうため、私のような観客はただ後に取り残されて呆然とするしかない。

・「台風クラブ」(相米慎二監督) 3.0点(IMDb 7.2)日本版DVD
 長回し撮影の多用や厳しい演出、比較的若くして死んだことなどから今や伝説的な映画監督と見なされている相米慎二だが、この作品には終始ただならぬ不穏さが垂れ込め、緊張感にあふれている。特に台風が襲来する学校の校舎に二人きりで取り残された大西結花演ずる女子生徒と彼女につきまとう男子生徒とのからみは、その緊張の頂点を成している。
 その後の展開もことごとく観客の予想を裏切るもので、どこまで本気なのか分からない最後の「死」の場面(「犬神家の一族」からのパクリか?)まで息つく暇がなく映画は進行していく。
 

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・「大鹿村騒動記」(阪本順治監督) 3.5点(IMDb 7.2)インターネットで鑑賞
 劇中作の歌舞伎とメインの物語が連関していく手法はよくあるものだが、これはその中でも最も成功した例のひとつと言って良く、個人的には市川森一脚本の「淋しいのはおまえだけじゃない」を思い出しながら見ていた。
 ただし終始、音楽がうるさいのが玉に疵である。特に歌舞伎の舞台の際のBGMは余計で、台詞が聞き取りづらい上、雰囲気もぶち壊しである。
 これが遺作となった主演の原田芳雄と岸部一徳のコンビもおかしく、大楠道代との三角関係も少しも湿っぽくなくユーモラスで、この作品全体の基調であると言っていいからりとしたユーモア感覚の源泉となりえている。
 ただし、松たか子の恋愛を巡るエピソードと、原田芳雄が営む「ディアイーター」なる食堂で働く性同一性障害を抱える若者のエピソードは蛇足だろう。三国連太郎が、原田芳雄の父親のシベリアでの死について語る場面も、この映画には馴染まない取ってつけたようなエピソードのようにしか思えない。

・「股旅」(市川崑監督) 3.5点(IMDb 7.1)インターネットで鑑賞
 ATG製作の作品ということもあってか、どこかアメリカン・ニューシネマの雰囲気を漂わせる市川崑の異色作である。市川とともに脚本を担当した詩人の谷川俊太郎は、「東京オリンピック」や「火の鳥」など、他の市川作品にも何本か参加しているが、とりたてて詩的な台詞がある訳ではない。
 どこまで事実に即しているのか分からないが、冒頭で紹介される渡世人の仁義の切り方を延々と見せる場面はドキュメンタリー調と言って良く、同じ市川崑監督の金田一耕助シリーズには欠かせないバイプレイヤーである常田富士男(まんが日本昔ばなし)と渡世人3人衆のやり取りは(早口で話される台詞は余り聞き取れないものの)糞真面目なだけにかえってユーモラスで、この映画の一番の見所だと言ってもいいかも知れない。
 その後はこれと言った大きな展開もなく、三人衆の一人である小倉一郎とその父親(大宮敏充)とのやり取りや、やはり小倉一郎がある年寄りの若き後妻(井上れい子)を奪い去って逃げる挿話にしても盛り上がりに欠けたまま、なし崩し的に語られていくだけで面白みに欠ける。萩原健一と尾藤イサオという個性的な俳優たちは今作では脇役的な存在で終わってしまっていて、その点でも残念な気がする。
 しかし上にも触れたように、アメリカン・ニューシネマ的な不穏な雰囲気は作品冒頭から濃密に漂っていて、なにが起こるか分からないという緊張感が最後まで途切れない。
 

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・「男たちの挽歌 II」(ジョン・ウー監督) 3.0点(IMDb 7.4)日本版DVD
 再見。二匹目の泥鰌ということで、ご都合主義的な部分も多く、やはり1作目には叶わない。

・「ファイト・クラブ」(デイヴィッド・フィンチャー監督) 3.5点(IMDb 8.9)日本版DVDで再見
 

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 こちらのケーブルテレビで無料で見られる伊丹十三監督の作品を幾つか再見(「マルサの女」シリーズは何度も見直しているが)。
・「マルサの女」(伊丹十三監督) 3.0点(IMDb 7.4)日本版DVD
・「マルサの女2」(伊丹十三監督) 3.0点(IMDb 7.0)日本版DVD
・「マルタイの女」(伊丹十三監督) 3.0点(IMDb 7.0)日本版DVD
 

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 また韓国語の聞き取りの勉強にために、今後は韓国映像資料院の公式サイトで視聴できる韓国映画を集中して見ていくことにした(→しかしその後は全く続かず)。
・「花びら(꽃잎)」(張善宇監督) 3.0点(IMDb 7.2)

 https://www.youtube.com/watch?v=z_2e200lQLY 
 俳優ソル・ギョングや女優チュ・サンミの映画デビュー作で、1980年に韓国南部・全羅南道の光州市で起きたいわゆる「光州事件」をモチーフにした作品。時代的な意味はあるとしても、映画的な完成度は同じ光州事件を扱った「ペパーミント・キャンディ」などに比べると遙かに落ちる。
・「星たちの故郷」(李長鎬監督) 3.5点(IMDb 6.9)

 https://www.youtube.com/watch?v=9cTDLnc3D30 日英韓字幕あり
 原作は先年亡くなった崔仁浩(チェ・イノ)。マグダラのマリアなどになぞらえた一種の聖女伝であり、主人公の女性キョンアを演じた安仁淑が、決してうまい演技ではないにもかかわらず、身勝手な男たちに翻弄されて堕落していき、ついには死(昇天)を迎える儚い聖女像を体現してみせている。

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・「馬鹿たちの行進」(河吉鐘監督) 3.5点(IMDb 7.6) 

 https://www.youtube.com/watch?v=4PvzT5WnNrA 英語字幕あり
 これまた原作は崔仁浩で、かつて「ソウルの華麗な憂鬱」と題した日本語訳が刊行されたことがある。
 結末は英国映画「さらば青春の光」(Quadrophenia、1979年)を髣髴させるが、1975年に作られたこの「馬鹿たちの行進」の方が時代的には先である(ただしもともとの The Who によるアルバム(「四重人格」)はさらにその前の1973年の作品で(「馬鹿たちの行進」の原作も1973年の出版)、果して原作者の崔仁浩や監督の河吉鐘が The Who の曲からインスパイアーされたのかどうかまでははっきりしない)。
 

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 キム・ギドク監督作品のうち未見のものを視聴。
・「絶対の愛」(キム・ギドク監督) 3.0点(IMDb 7.3)日本版DVD
・「ブレス」(キム・ギドク監督) 3.0点(IMDb 7.0)日本版DVD