●第194段


人間鑑定力に優れた達人は、人を見抜く眼力に微塵の誤りもない。


「うそ」を例に、10のケースに分類している。


兼好は、このような論理学のような分析が好きだったようだ。随所に出てくる。


兼好がどう思ったかわからないが、


〇 「うそ」をつかれた人の反応

 

・「信じる」「信じない」「考えるが判断できない」「無関心」


〇 それに対する反応


・「へえ」と驚く(+反応)、「まさかあ」(-反応)、どちらでもない(±反応)


10の場合を、表にすると(絶対的分類ではないし、この分類が適当かわからないが。。)、








論理学に優れていたわりには、重複があったり、抜けがあったりと、やや杜撰。


10の場合とは


1.素直に信じて騙(だま)される


2.信じすぎて、尾鰭(おひれ)を付けて、一緒に騙す


3.何とも思わず無関心


4.不審を感じ、信用するでもしないでもなく、考え込んでいる


5.事実とは思わないが、人の言うことだから、と放っておく


6.あれこれ推理して知ったかぶりをするが、何にもわかってない


7.うそらしいと、判断しながら、推測にあやまりがあるかもと危ぶむ


8.特に変わったこともないな、と手を打って笑う


9.「うそ」であることを十分知って、あれこれいわず、知らない人間と同じ態度をとる


10.「うそ」の目的をすべて理解して、「うそ」の張本人に協力する


面白いのは、「うそ」を信じる人は、-反応や反応なしがないこと。




10の場合が長々と書いてはあるが、


兼好の言いたかったことは、


「さまざまな反応の仕方が、言葉遣いや表情で明白になってしまう」


ということ。


人間鑑定力の達人は、「兼好」自身であると、遠慮がちにいっている感じがしなくもない。


このような分析は、「荘子」にあったような気がした。ある程度、影響を受けたのだろうか?



●第72段にも、「うそ」の話がある。この時代。「うそ」が多かったのだろう。


〇「うそ」の分類。


・危険でない「うそ」


 いわゆる、たわいもない「うそ」 軽薄な「うそ」は罪がない


・危険な「うそ」。


巧妙につくられ、しだいに事実として確定されてゆく「うそ」


これは誰もが信用するのでおそろしい。


〇「うそ」への反応


・自分にとって名誉になるように、他人から言われた「うそ」


 文句はつけて全否定はしない。結婚式の祝辞みたいなものか?


・誰もが喜ぶような 「うそ」


 自分一人だけ否定しても、仲間外れになるだけ。


 こういう「うそ」はだまって聞いているうちに、だんだん事実として確定してゆく



でも、なんやかんや言っても、兼好は「うそ」を否定していない


「うそ」とわかっても、深くかかわらず、よくある世間話ぐらいに受け止めよ、と言う。



更には、神仏の不思議現象に触れ、


本気で信じるのもばかばかしい、絶対ないと否定するのも信者に通じるはずがない


ほどほどに事実と受け取れ とアドバイスする



言葉は、真・偽の両面をもつことを認めて、寛容な態度をとっている。


「徒然草」を通して、感じるのは、


決して合理的ではない、むしろ、そういうものに反発しているようにも感じる。昨今の「ビジネススクール」真逆でしょう。


個人的には、そんな兼好の「大衆に迎合しない、ややひねくれてはいるが、偏屈なところもある一方、寛容なところも見せる、矛盾した姿勢」に親近感を覚える。