エフェソ6:18-20 どのようなときにも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者のために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように祈ってください。


わたしは聖書を読むことが好きですが、祈ることも好きです。この二つがあるから毎日生きられるといっても過言ではないと最近気がつきました。わたしはよくも悪くもあまり世の中のことに関心が薄いので、積極的に人生を切り開くぐらいの強さはありません。そもそも生きる気があるのかと思います。けれども、この二つだけは強いこだわりがあるようです。というかこれがないとわたしは生きていけないのです。しかし、祈りも聖書を読むこともわたしの力で行っていることではないとつくづく感じるようになりました。聖霊に助けられているのです。本当にそう感じさせる出来事がありました。ずっと根気よく祈れるのも自分の力では無理なのです。エフェソ6:10に「主に寄り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」とあります。祈りも聖書を読むことも、聖霊の助けがなければ、何の力にもなりません。そして、適切な言葉をも与えられないし、語るべきときに大胆にも語れません。神さまに助けられて生かされてこそ強くあれるのです。日々、何をするにも守られているのです。そういうことを忘れてしまいがちです。誰かにあなたのようにできないと自分の信仰のいたらなさを言うとき、自分が守られて信仰を保てていることを忘れているような気がします。また、だれかにあなたの信仰はと、信仰の不十分さを非難したくなるとき自分の信仰が助け、導かれていることを忘れているような気がします。自分の信仰は自分一人で保てるものではありません。


聖霊に助けられるように、お互いに信仰を支えあい、助けあうことが求められます。人の信仰は至らない、不完全なものです。だから、神に助けられ、人々に助けられて初めて信仰に生きられるのです。






マルコ4:35-41
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

教会の礼拝で「主の平和」と挨拶します。「主の平和」を自分の内に保つことがまず何よりも優先されるのだと思います。自分の内に本当に平和がなければ、人を平和にすることはできません。自分の内に主の平和があるとはどんな状態なのでしょうか。いつも楽しくてうきうきしている状態でしょうか。-そんな状態がいつも続くわけではありません。
楽しく生きないとと頑張れば頑張るほど、それも、時に疲れます。いつもポジティブな状態でしょうか。-無茶苦茶しんどいときに無理にポジティブになれません。逆になろうと努力すればするほどしんどくなります。では、どんな状態なのでしょう?「主は私の岩」いう表現があるように、自分の内に岩を持つことだと思います。何があっても動じない変わらない存在を持つことです。だから、主の平和という意味は、不変不動のものを自分の内に見いだすことだと思います。それは、神様を信じるということなのです。不変不動のものがあれば、自分がたとえどんな目にあっても、どんな暗闇に連れて行かれても、戸惑ってしまうことなく、苦しんでも、悲しんでも、元に戻るしなやかな心を与えられます。丁度、サーフィンのようです。

今日の箇所は、イエスさまは、行く目的地を示し、舟でみんなで向こう岸に渡ろうとしました。その途中に、嵐が起って舟が危なくなるそうになりました。確かに水が入ってくれば、舟が沈んでしまうし、生きていけません。なんとかしないと、とお弟子さんたちは、何もしないで寝ておられるイエスに「おぼれてもいいのか」と言います。イエスさまは何ともしないで「信じなさい」と言ったわけではなく、ちゃんと弟子たちの要望を聞き入れ、風や雨に叱って止めさせました。ちゃんと弟子たちが信じられるような状態にしてくださった訳ですね。向こう岸に着けるまで信じられるようにイエスさまが整えてくださったわけです。揺れ動く弟子たちの動かない存在としてイエスさまは弟子たちの内におられたのです。

それでも、弟子たちは凪になったのに、怖がって信じられなかったから、イエスさまは「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と言われたのです。信じることは、わたしたちの努力ではなく、神さまの恵みなのです。自分が神さまを信じられるのは、神様から私たちに歩みよってこられて、信じられるように道を整えてくださるからなのです。自分が、揺れ動いてどこに行くか分からない不安に襲われたとき、「イエスさま!」と叫ぶだけで、信じる力を与えてくださいます。「信じる力」を怖がらずに受ければいいのです。

神様の平和を得るのは、知識でも、自分の努力でも、道徳でも、感情でもありません。ただ、一方的な神様の恵みを素直に受け取るだけなのです。それを恐れずに大胆に受けることを許されています。向こう岸が見えているなら、もう向こう岸に着ける恵みをいただいています。恐れている自分をイエスさまはいつも辛抱強く励ましてくださるのです。何度でも怒ったり、泣いたり、しんどいとくじけそうになったり、無気力になりそうになったり、行き詰まりそうになって、失敗しても、イエスさまはその度に起こしてくださいます。わたしは、その度に、神様に委ねきって生きる力を与えられ、神様とのきずなが日々強くなっていくのだと思います。これこそがわたしの内なる平和なのです。
イザヤ45:8-13


天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を注げ。
地が開いて、救いが実を結ぶように。
恵みの御業が共に芽生えるように。
わたしは主、それを創造する。

災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに自分の造り主と争う者は。
粘土が陶工にいうだろうか
「何をしているのかあなたの作ったものに取っ手がない」などと。
災いだ、なぜ子供を儲けるのか、と父親にいい、
なぜ産みの苦しみをするのかと母親に問う者は。

イスラエルの聖なる神、その造り主
主はこう言われる。
あなたたちはしるしを求めるのか。
わたしの子ら、わたしの手の業について私に命ずるのか。

大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。
自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。
わたしは正義によって彼を奮い立たせ、その行く道をすべてまっすぐにする。
彼はわたしの都を再建し
わたしの捕われ人を釈放し
報酬も賄賂も求めない。
万軍の主はこう言われる。


今日は雨です。私は、冬の雨は苦手です。見かけは活発で活動的に見える私ですが、どちらかというと面倒くさがり屋でじっとしているほうです。家庭以外に仕事をもったり、日曜日に教会に行くとか、教会の活動に積極的に参加しないと、ややもすると引きこもってしまいがちです。寒かったり、暑かったり、雨とか雪とか、だと、外に出なくていい方法を探します。「だって、今日は雨やから家でごろごろする」「雷なんか鳴らすから外に行けない」とか困ったものです。小さいときに雷に向かって怒ってたそうですから、今も基本は変わってないのですね。あまり人に対して、仕事に対して、生活に対して不平・不満はないというか、鈍感なほうなのですが、結構どうしようもない天気とか自然とかに怒っているから本当に私はどうしようもないです。神様はみんなのことを考えて雨を降らせたり、晴れにさせたりしているのにそれに文句をつける私は何ものかと叱られそうです。これだから、夫にお嬢さまとか、女王さまと言われるんですが。でも王様がいるからいいんです。神様は何でも私の望むことを聞いてくださいますから女王さまみたいなものです(笑)。誤解のないように、私が特別だと言っているのではなく、神様を信じる人はみんなそうです。神様は私たちの親だから私たちの望みをみんな知っておられます。ほしいものはきちんとくださいます。くださらないのは、自分勝手な動機から来るものとか自分を滅びに導くような危険だけです。

神さまは自然な形でなんでもくださるのですが、くださったら、いつのまにか私の願っていたことなんて忘れて、「何をしているのかあなたの作ったものに取っ手がない」なんて不平・不満でいっぱいになってしまうのですね。神さまはさりげなく目立たず主張せず、知らず知らずに私たちの思いや願いを叶えてくださるし、それ以上のことをかなえてくださるのです。そういえば、お祈りするときも知らない間に「・・・ありがとう」の祈りの数より「・・・してください」と要求する願いの方が多くなりがちです。ときには、請求の祈りばかりになってしまいます。ごめんなさい。ちゃんとお礼を言えなくてすぐに甘えちゃうんです。なんかちょっと恥ずかしい。無茶苦茶感謝しているのに。神様、どうしようもないですね。

でも、感謝の祈りをたくさんするだけで幸せになります。もう最悪、しんどいなあと思うときほど、心に思っていなくても、「・・・ください」を「・・・・をありがとう」に変えて口に出すだけでちょっとほっとしてきます。そのうち、ありがたくなくても気持ちもありがたく穏やかになります。

私は不完全なのに毎日、存在させてくださる意味は私にはよくわかりません。でも、それが神様の愛情なのでしょう。どうしようもないのに私たちの存在のためにイエスさまが命をおささげになったことも、この世の知識完全に分かりません。でも、いいんです。それがまさに神様の無限の愛なのです。不完全な人生もまた、神様の愛の中で生かされている恵みです。自分やその人生に対する乏しさは、神様の愛によって乏しいことがなくなります。感謝です。

詩編23 主は私の羊飼い、わたしには何も欠けることがない。