マルコ6:46-52
6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである


最近は「救われたい」と思っている人たちが若い世代で多くなってきているように思います。ちょっと前までは、癒されたいと思っている人が多かったのに、この数年、心から助けを求めている高校生・大学生に出会うことが多くなりました。その子たちの思いは共通して自分の存在の空虚感を訴えます。その殆どが自分のことが嫌いです。自分を許せないのです。だから、自分は長所もあるし、そのままでいいのよというメッセージをしても、なお、それを認められない不信感で苦しみ、最後には、空虚感を訴えてきます。「わたしはなにもない・・・」というふうに切実にメッセージを送ってきます。たぶん、その子たちは自分が空虚であることが怖いから、自分を悪く思うことにすがりついていかないと生きていけないことを分かっているのかもしれません。自分のよさを信じることよりも、悪さを信じる方が信じやすいからだと思います。人間は、限定された存在なので、限定されたネガティブな考えに走りやすい性質があるのです。

人間は本来、般若心経や旧約聖書のコヘレトの言葉にあるように空なる存在です。それゆえに空であることが怖いので何かに囚われて生きないと生きていけないのです。心を空のままにできないので生きるために囚われてバリアを作っています。そして、まっすぐものをみることができないのです。仏教で一番重要な教えの一つである「正見」とということばは、囚われずにまっすぐにものをみることという意味ですが、それは、まっすぐにものがみられるようにしていくことの大切さを教えてくれます。

今日の箇所はイエスさまが湖の上を歩いておられるのを弟子たちが驚いてしまった箇所です。わたしが、注目したのは パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからであるという箇所です。この箇所の前にイエスさまが5千人にパンを与えたという有名な奇跡がありますが、その奇跡を弟子たちは理解できなかったのです。そして、心が鈍くなっていました。私たちは自分の理解を超える出来事にあうと、ストレスに感じます。ネガティブなことでも心に構えがあるとある程度対処できるのでストレスは少なくてすむので、できるだけ自分をネガティブな考えにしておけば、ネガティブなことをなんとか乗り切れると思い、心にバリアを作るのです。心にバリアを作ることがまさに心が鈍くなるということなのです。弟子たちは、イエスさまの奇跡をそんなことがあるはずがないと否定的に見ていました。しかも、連続して奇跡なんて起きないと思っていたのです。弟子たちの心はイエス様の奇跡をそのまま受け止められなかったのです。そのまま受け止めるにはあまりにも衝撃が大きすぎて、それを受け入れると自分がなくなるような気がしたのでしょう。ありのままに物事をみ、受け止める心は空っぽの心でないと受けとめられません。空虚な存在を認めるのが怖いのです。その反面、その奇跡をそのまま受けとめたいという思いもあるのです。どうしようもない、ただうろたえて驚くしかない自分が存在します。そこでイエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とおっしゃいました。驚きうろたえる弟子たちをみことばで救ってくださったのです。それは、私たちの心をそのまま、さらけ出して差し出すだけでよいというメッセージです。私たちの空虚な存在は、みことばで満たされ、みことばに囚われて新たな生き方ができる満たされた存在として生かされるのです。

イザヤ書50:4-5にこんな言葉があります。

50:4 主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。
50:5 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。

イエス様は毎朝、弟子としてわたしたちをみことばで育ててくださいます。まっすぐな心でみことばを聞けるように、わたしたちの心も整えてくださいます。空っぽの心も守らなくていいのです。すべて神様が助けてくださいます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」
とわたしたちの心にいつも語ってくださいます。

どうか、私の恐れを取り除き、まっすぐな心で、みことばが聞けますように。



イザヤ49:14-16

シオンは言う。
主は私を見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と

女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたたちを忘れることは決してない。

見よ、わたしはあなたを
わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。


なかなか出口の見えない毎日です。ただ幸いなのは、そんな中にあっても、今までと変わらず生活できているということです。将来のことが見えないとき、不安になってしまいます。思わず、わたしは見捨てられたかな、忘れられたかなと思ってしまいます。そして、悪いように悪いように考えてしまいます。すぐに明るくなれるときはいいけれど、そんなときばっかりではないです。悪いようにしか考えられないのも、その後のいいことがあったときの喜びの準備だから、悪くしか考えられないときはそれもそのままでいいと思うんです。無理して明るくしても、気がかりなことは気がかりでしょう。だから自分の気持ちに正直であろうと思います。そして、神様に正直にわたしの気持ちを話すようにしています。究極的には「神様、どっか行かんとって、見捨てんとって。」みたいに自分の言葉で正直に祈ります。だから、祈りはシンプルで飾り気がありません。美しい祈りがどうも苦手です。だから、人と一緒に祈るときは、言葉を選ばないといけないので、いまだに自由祈祷の代祷は緊張してしまいます。

とにかく、素直に自分の気持ちを打ち明けると、最後には、神様はいつも、「なんで忘れるん?見捨てへんがな。」と言ってくださいます。この言葉でわたしは十分なのです。でも、この言葉をいつも聞かないと、すぐに不安になって、神様に見捨てられたように感じてしまいます。神様はご自分の手のひらにわたしたちを刻みつけておられます。それは、いつも、わたしたちを忘れないというしるしなのです。ああ、イエス様の手のひらの傷。ご復活されても、傷はそのまま今もあるんです。イエス様がわたしたちをずっと忘れないようにするための刻み付けられた印です。

イエス様、わたしたちをいつも覚えてくださっているんですね。わたしたちがどんな状態にあっても、どんなときもわたしたちをお見捨てにならないのですね。なのに、わたしはどうしてあなたを疑うんでしょう。悲しくなります。
でも、大丈夫。疑えるから信じられるのです。信じているから疑えるのです。
あなたが一番悲しまれるのは、あなたの存在に無関心なこと。あなたは、関心をもってわたしたちを見つめておられるのに、あなたの存在に何も感じない、無関心でいるときこそ、本当にわたしたちは惨めな存在なのです。でも、
そんな惨めな存在をも限りなく関心をもってみてくださる方は、本当に愛なる方そのもの。イエスさまの愛になりたいです。

イザヤ49:1-12
49:1 島々よ、わたしに聞け/遠い国々よ、耳を傾けよ。主は母の胎にあるわたしを呼び/母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。
49:2 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き/わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
49:3 わたしに言われた/あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝きは現れる、と。
49:4 わたしは思った/わたしはいたずらに骨折り/うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり/働きに報いてくださるのもわたしの神である。
49:5 主の御目にわたしは重んじられている。わたしの神こそ、わたしの力。今や、主は言われる。ヤコブを御もとに立ち帰らせ/イスラエルを集めるために/母の胎にあったわたしを/御自分の僕として形づくられた主は
49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。
49:7 イスラエルを贖う聖なる神、主は/人に侮られ、国々に忌むべき者とされ/支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主が/あなたを選ばれたのを見て。
49:8 主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え/救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて/民の契約とし、国を再興して/荒廃した嗣業の地を継がせる。
49:9 捕らわれ人には、出でよと/闇に住む者には身を現せ、と命じる。彼らは家畜を飼いつつ道を行き/荒れ地はすべて牧草地となる。
49:10 彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き/湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。
49:11 わたしはすべての山に道をひらき/広い道を高く通す。
49:12 見よ、遠くから来る/見よ、人々が北から、西から/また、シニムの地から来る。

私なんていなかったほうがいいのかなと思ったことが誰しもあると思います。何のために生きてるのかわからなくなることもあります。特に困難の中にいるとき、生きる意味や生きる目的は、なんだろうと考えます。そんなもの考えなくてとにかく生きればいいと思うけれども、やっぱり人は何のために私が存在して、何のために生きているのだろうと考えます。そのため人はあらゆる知識を求めたり、修行をしてみたりします。しかし、それらは、心の修養にはなっても、本当のところ自分の存在の意味を見いだすことはできません。それは人間としての限界性でもあります。ただ、自分の存在は知識や修行といったものではなく、究極のところ、人はだれかに認められて初めて自分の存在を認めることができると思うのです。人はだれかに認められたいという心を常にもっています。その心さえ満たせれば、難しい知識よりも修行よりも十分に答えになるのです。しかし、人は人を完全に認めることはできません。言い換えれば人を愛することですら人間には限界があります。たとえ自分の親ですら子供に完全な愛を与えることはできません。親に愛されなかったという思いの中に、親に完全な愛を求めてそれが得られない故の怒りを見ることができます。人間は完全に愛されたいのです。認められたいのです。でも、それは人間に求めるのに限界があります。たとえ、十分に愛されずに育ったとしても、完全な愛に出会うチャンスが人生には用意されているのです。不完全な愛を知っているから完全な愛を知ることができるので、不完全な愛に出会うのは、完全な愛を知る大切な準備なのです。

完全な愛、わたしたちを完全に認めてられるのは神様しかありません。神様は完全な愛だからです。「主の御目にわたしは重んじられている。」ということばに神様がいかにわたしたちを愛されているかはっきりとわかります。「重んじられている」ということばですが、ある聖書の訳では「尊い」という訳になっていました。ある英語の聖書では「栄光」ということばになっていました。実は旧約聖書の原語、ヘブライ語では「栄光」という意味は「重んじる」という意味なのです。「主の栄光」という意味はわかりやすくいうと、「神様を重んじる」という意味なのですね。つまり「神さまを尊ぶ」という意味でもあります。神様が私たちを尊く思うとか神様が私たちに栄光をくださるのは変な感じがします。こんなちっぽけな人間を目にかけてかわいがってくださるんですよね。しかも、イエス様の十字架を通してご自分の栄光をお捨てになって、また、ご自分を軽んじて私たちを重んじてくださったのです。こんなすごい愛はありません。この愛に報いるほどの愛は私にはありません。それでも、お返ししたいのです。ただできることは、神様を重んじて生きる生き方をさせてくださいと願うばかりです。神様を愛し抜く生き方ができたらなあと思っています。