ヨハネの手紙1 3:1-2

御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、父を知らなかったからです。


愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となることを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。


今日は被献日です。イエスさまのお宮参りの日と言ってもいいと思います。ユダヤでも、神さまに授かった子を捧げ、その子が幸せに育つように神さまのみ守りに生きるように願うことをしました。そこでシメオンは、イエスさまの人生の役割とマリアのこれからについて預言します。シメオンの賛歌を歌ったのです。
人はだれしも神の子として生きる権利を持って生まれてきます。神は、すべての人を愛しておられるから人が最も幸せになる生き方をくださろうとしています。神さまに人生を捧げるということは、自分が最も幸せに生きる生き方を選ぶということです。
それでは、イエスさまは、ご自分の人生を幸せだと思っていらっしゃったのでしょうか?最後には十字架にかけられてしまって、この世の基準から見ると幸せな人生とは思えません。神さまの使命とは言え、辛くなかったのかな、他に最も幸せな道がなかったのかなと思ってしまいます。でも、神の子は永遠なので、この世だけで考えると、理解はできません。ただ、神さまがイエスさまを愛されたのをイエスさまは、そのまま受けいれたのです。私たちのように、人から受けた苦しみの中にいるとき自分は愛されてないと自分で決めつけることはしませんでした。ただ、神に愛されていることを受けいれ、神の子としてそのまま歩まれたのです。
私たちはどうなっていくのかわかりません。けれども、イエスさまが生きられたようにイエスに倣って生きるとき、イエスさまと似た者にされます。イエスさまは、ご自分の人生が最高に幸せなものであると思っていらっしゃると思います。神の愛に生き抜く生き方は、すべての人々を幸せにする生き方だからです。自分一人の幸せを求めないで、みんなが幸せを求めるとき、自分も幸せになります。イエスさまは確かにご復活され、今も共に生きておられます!わたしたちと共にいることを喜んでおられます。最高の幸せをイエスさまは捕まれたのです。私たちも神の子として神に捧げて生きたいと思います。



コリント8:1-13
8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。
8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
8:7 しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。
8:8 わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
8:9 ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
8:10 知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
8:11 そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
8:12 このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
8:13 それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

キリスト教は道徳や知識ではないと本当に知ったのは、ずいぶん大人になってからです。小学生のときぐらいから自分とは何か?、人間とは何か?ということを考えるのが好きでした。多分、小学生のころ、よくいじめられていたからかもしれません。こういうことを考えないと、生きていけなかったんだろうなと今になって思います。しかし、自分や人間について見て考える主体が人間である私であるので、極端に言えば私が私を観察していることはなんだろうと思います。変な感じがしますが、私が私を見られないのになぜ私の存在について考えられるのは不思議です。本当は、私なんてないのかもしれません。私を私に至らしめているのは、私以外に誰かが存在しているから私なのでしょう。たとえば、自分がおっとりしているとか、ぼんやりしていると思っていたとすると、それは自分を誰かがみてそう言うから自分がそのことを信じているだけに過ぎません。私は周りとの関係によって私になりえるのだから、もし、周りがたくさんあって、常に変化し、限りある存在だけであったならば、明確な自分はないということになります。つまり自分は出会うものによって常に変わっていくのだから、結局、空虚な存在ということになってしまいます。だからこの世的に考えれば「空」としか言えません。しかし、私が私であれるのは、神さまが存在するからなのです。神さまは一つで不変で無限の存在です。だから神さまと出会うとき、どんな状況にあっても自分は初めて一つで不変で無限な存在となりえます。この関係こそ永遠なのです。

今日の箇所に、

わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。


とあります。私という存在は、私という役割を神さまからいただいて、自分らしい人生を生きるという使命をいただいているのです。ですから、唯一の主イエス・キリストがおられて、私たちは初めて私として存在できるのです。つまり、自分の心をイエス様に明け渡して自分を忘れ、神様と万物につながって生きる生き方をして本当の私になれるのです。この知識は、人が作り出した知識ではありません。なぜなら、実証しようもないことですし、どんなに学問を究めても、どんなに道徳を知っていても、たどり着けるものではありません。ただ、神様から与えられた知恵であり、知識であり、自分の努力でそれに辿りつけるものではありません。ただ、神さまの愛を信じる恵みと神を畏れることによって深まっていくのです。だから、詩編に「主を畏れることは知恵の初め、これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」とあります。つまり、自分が神様に認められていると信じ、神様が分からないことのすごさを思うとき、すべてのものに神の働きを見、神さまに感謝していきるようになるのです。

ただし、神から与えられた知恵や知識は神さまが一人一人の人生でその人に応じた働き方をなさるため、他者はこの知恵や知識を証しすることはできても、教えることはできません。これらを与え、教え、導くのは神の仕事であって私たちは単なる神の仕事の協力者にしか過ぎません。宣教するときに、相手を説得させようとか、教え込もうという思いがあれば、それは他者を支配する危険性があることを知っておかなければなりません。相手の状況に応じて、相手に合わせて自分も相手の信仰の歩む速さに合わせていく必要があります。そうでなければ、相手は、自分が与えられた知識によって滅ぼされてしまいます。イエスさまは完全になんでも知っておられ、何でもおできになったのに、弱くもろい私たちのために、この世に来られて、一緒に歩み、人の弱さによって十字架に掛かられて復活なさったのです。

神様の完全性は人間にとって到底たどり着くことのできないものです。「神さまみたいにできない」という人間のどうしようもなさを憐れんで、神様から私たちに近づかれたのです。神様は、私たちに「どうしてできないの」という言葉を言って私たちを蔑むことはなさらず、むしろ、私たちよりも低くなられました。私たちは、ややもすると、福音宣教のゆえに神になってしまうこともあります。しかし、真の知識は愛を伴って初めて完成されます。自分たちは救われて相手は救われていないとか、クリスチャンとそうでない人との差別化を図り、その優越感に浸ってしまうことがあります。しかし、自分が注目されて、気持ちのいい宣教ほど自分が相手のどの位置にいるか確認する必要があります。
どんな相手にも神様の働きを見ることができます。その神の働きに手を合わすような気持ちで、自分を相手より低いところに立って福音宣教をしていくことが大事だと思います。愛があって初めて知識が生かされていきます。すべてを生かす神の知識を求めていきたいです。


ガラテヤ3:23-29
3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。
3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。
3:25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。

キリスト教の生みの親であるユダヤ教では、聖書を読むときに10人で読めば10人とも違うものの見方を求めるそうです。聖書を読むときは、正しいか、間違っているかでなくて、一人一人に与えられたみことばが違うので、そのすべてが存在するのを認めることが、神様のみことばにより近づくことだと考えられているからです。一人のものの見方には限界があります。他の人のものの見方を認めることでその限界を限りなく越えることができるのです。いつも私は、聖書を読むときに、他の人と全く同じ考えなら、それは聖書を読めていないと思います。だから、聖書を読むとき、自分の肉となるように、心も頭も体もみんな使って読むように心がけています。神様が「あなたはどこにいるのか」という問いかけに答えるためです。信仰とは、神様への応答だと思うからです。この神様との豊かなコミュニケーションこそが、決まり切ったルールよりも先にあるものだと思っています。ルールは人のためにあって、それが先にあるわけではあえいません。

さて、今日の箇所は、律法(ルール)がありきという考え方に対して律法よりも信仰が必要だと述べているところです。私の恩師はある小学校の校長をしています。今日、小学校の先生になりたいという大学院生と話しと恩師と私とで話しをしていました。わたしの大学は教員養成のための大学ではないのですが、小学校教諭の二種免許が取れるようです。中には教師になる人もいます。大学院在学中に彼女は小学校の教師の免許を取ったみたいで小学校の先生になるにはどうするか相談に来ていました。話しを続けるうちになぜか教育論になりました。最近の教育は決まった型にはめることに熱心で本来、その子供を一人の人格としてあるがままに受け入れ、その子のもつオリジナリティを育てることをしなくなったと話していました。型にはまらない子を抑圧し、切り落としていく風潮が強くなってきて、弱い子羊を大事にしないで、弱い子羊を排除するだけのやり方でいいのか疑問に感じると恩師が言っていました。キリスト教系の大学なのでクリスチャンである恩師は、キリスト教教育に対する信念があるようです。人は管理され、支配されなくても、自分の共同体に受け入れられていると感じるならば、自分たちで神の国とその義を求めていくのだと思います。人は失敗するし、ルールを守れないようなときもある、ルールが先行するのは何かおかしいです。人は、弱いときも強いときも人はそのまま受け入れられていると信じることで自然と一つになれるものです。つまり、人は、神と人に愛されていると信じることで、厳密なルールが無くてもお互いの持ち味を生かしながら一つの共同体を作り上げることが可能なのです。

あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」これが教会なのです。以前、ある教会の大学生が、自分が、神と人々につながっていればみんなを傷つけることなんてできないと言っていました。愛は律法を完成させるのです。ややもすれば、律法中心主義になり、形骸化した信仰になってしまいがちな私たちに、本当の信仰とは何かを問いかけています。教会に熱心に通っているとか、礼拝のきまりごとに忠実であるとか、クリスチャンはこういう生き方をしなければならないとか、ともすれば「・・・しなければならない」「・・・すべきだ」という思いの中に、律法主義になり、愛を失った私たちの姿を見るとき、信仰とは何かを本当に省みる必要があります。

最近の社会は、管理社会です。管理社会はマニュアルやルールで人を管理します。画一化したものを作り出す便利なシステムが好まれます。一人一人を人として育てる教育は手をかけ、目をかけ、時間が掛かるものです。そして、なによりも地味で目立たない働きです。そんな教育は、「・・・法」や「・・・論」などというようなスーパー・マニュアルはないので、派手さがなく、目立つものではないので時代に逆行しているように思えます。しかし、そんな時代だからこそ、そうした教育をしていく必要があるように思います。気が付いた人々はそういう教育ができる可能性のあるところに行って自分から実践していく勇気が求められます。人を人として当たり前に育てること-神さまが私たちを愛して神様の子供として育ててくださるように慈しみをもって人を育てる共同体をはぐくんでいけたらなあと思います。

「自分らしくみんなと仲良く一緒に生きられるんだよ」とイエス様は語っておられます。イエス様も弟子たちと一緒に共同体の中で宣教をされたのですから。これこそ、福音宣教の基本にあるものだと思います。