マルコ8:34-35 わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。


自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また、福音のために命を失う者は、それを救うのである。


今日は、日本の殉教者の記念日でした。殉教者というと、壮絶なイメージがあり、私には理解できないほどの強い信仰の持ち主だとずっと思っていました。日本は世界でもたくさんの殉教者を出した国です。それも、キリシタン禁制時代に、老若男女が殉教しました。これほどにまでイエスに委ね切った人々がいるのは、日本人がキリスト教を外国の宗教としてではなく、自分たちの命として受け入れた証だと思います。それぞれの国にそれぞれのよさをもった信仰があります。日本には、神からのすべての恵みに感謝し、神の道を従順に歩む信仰が与えられていると思います。


日本の殉教者が常に心がけていた信仰の姿勢は、第一に一切自分の力に頼らずただ神の国を思うこと、そして、自分の救いについて思うことでした。この姿勢は、自分の力を過信している現代のわたしたちに大切なものだと思います。


殉教は、自分の力に一切頼らず、ただ神に自分を委ね尽くす生き方だと思います。たとえ、その死に方が悲惨なものであっても、殉教者の心には、揺らぐことのない本当の平和があります。そして、それは、永遠の命の証となってたくさんの人々に命を与えていくのです。まさに、イエスの十字架に預かる恵みなのです。

この世の尺度では殉教は理解できません。与えられた信仰を通してしか殉教の意味を理解できないのです。


イエスは命を与えてくださいました。わたしたちの命は、イエスの命であり、それは永遠の命なのです。


この命を神と人々に捧げつくす生き方にこそ多くを生かす源になるのだと思います。神のみこころにそのまま歩めたらと思います。
8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

ブログの字の大きさの変え方が分からなくて自分でも小さいなあと思っていました。携帯で編集すると尚更うまく打てなくて。あんまり機械ものが得意なほうではないので、中々使いこなせません。このあたりまえのことがなかなかできなくてあきらめてしまいます。でも、読んでくださる方がいらっしゃるのですから、面倒くさがっててはいけません。読みにくい中、読んでくださってるみなさん、すみません。
本当にありがとうございます。

「え、こんなことぐらいで?」と思う人もいるでしょうし、機械がすんなりできる人には不思議なことでしょうが、日常、そんな些細なことで苦労しています。だから、器用にすっとできる人を見ると、思わずすごい人と思います。あれこれしてやっとできるようになるのに、その人は一瞬でできてしまう。まるで奇跡のように思えるんですね。

でも、一旦、自分ができるようになると、なんて簡単なことと思ってそれができない人の苦労を忘れてしまう自分もあります。できるようになったことは、自分で努力したとも言えますが、努力する力も、技術や知識を獲得する力もいただいたものなのです。「いただいたもの」の送り主である方に感謝する気持ちを忘れないようにしたいと思います。

今日の福音書は、イエスの奇跡物語ですが、私が注目したのは、最後の行です。盲人が癒されて目が見えるようになったのに、イエスは「この村に入ってはならない」とおっしゃいました。わたしは、なぜだろうと思いました。イエスは村の中で盲人を癒されずに、わざわざ村の外に連れて行って癒されました。ここにも理由がありそうです。

マルコ8:12にイエスはファリサイ派の人々がイエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけたとき、イエスは「どうして今の時代の者たちはしるしをほしがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」と言われました。

人は、何かすごいことを成し遂げると、自分に対しても人に対してもその者自身の能力に原因を求め、その人の偉大さを賛美してしまう傾向があります。人はどこかしら、そういうすごい能力を持った人に期待し、悪いことにその人自身を祭り上げてしまうのです。もし、イエスが村の中で盲人を癒したなら、村人は、その奇跡を神の働きとせず、奇跡に依存することをイエスは知っておられました。イエスは、それが村人の信仰を正しく導くものにならず、また、自分自身にも益にならないのを知っておられたのだと思います。だから、目立たずに、奇跡を行われたのだと思います。

最近、世の中は、能力主義になってきています。能力を持つ人に価値があるようにされ、それがない人は生きにくくなってきています。それは、人間が人の能力を過剰に求め、依存する姿は、まさにファリサイ派の人々のようです。能力は神の国をつくるための道具であり、それを与えられた人は、必要としている人にだけ、その道具を惜しみなく使いなさいと教えられているようです。そして、その能力は使うべきところ以外は使うべきではないとも戒められているようです。これが、本当の権威です。権威は、持っている人が必要としている人に対して持っているものを使うということなのです。

私たちは奇跡やしるしそのものを信仰してしまうのではなく、それをお与えになった神の憐れみに感謝したいと思います。奇跡が信仰に導くことは否定しません。でも、奇跡を信仰してはいけません。十字架に掛かられて、死んで復活されたイエス様の奇跡を通して私たちが神の愛に招き入れられる大きなきっかけになったように、奇跡は、神の愛と恵みの現われであることを常に忘れないようにしたいものです。



ペトロ1 4:19 だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをしつづけて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。


いい子であるよりも素直であるほうが生きていくのに楽だと思います。信仰生活は、辛くてしんどいものではなく、辛くしんどい状況にあっても、その状況から受ける影響を最小限にして揺れ動く自分に碇を下ろすようなものです。信仰的な生き方は、一般的にしんどいと思える状況の中で人々が心を乱さず平和に生きる姿から学ぶことが多いと思います。あんな困難の中で心に平和を保っていられるのは何故と思うところに理屈でない生きた信仰を見ることができるのです。以前、東京の友人が大阪に勤めていたとき自分の勤務先の病院の経営がよくないのに、人々は「しゃあないやん。なんとかなるわ。」と笑って、しかも、それネタにして冗談を言いあっていたのを見て、びっくりしたそうです。確かに笑って済ませられることではないけれど、笑わないとやってられないとも思います。これは、ある面で真剣さにかけると思いますが、大阪の知恵だとも思います。つまり、人間にはみんな限界があるから神さんに任せて、自分らができることを楽しくやろやという考えです。でも、しんどいのはしんどいねんよ、早くなんとかしてなと自分に正直でいます。信仰は、頑張って自分の力で成していくものではないと思います。どうしようもない私たちを神さまが愛してくれる。イエスさまが内にいてくれてる。そんな私もあなたもみんな、ふっと力抜いて体を倒してみたら、ふっとイエスさまが捕らえてくださる。そうしたら、しんどいときも、理由なく、ふっと楽になる。信仰って、そんなものだと思います。自分の頭や力によらない与えられたほっとする気持ちこそ神さまからの憐れみです。信仰が毎日、与えられていることを感謝します。