ガラテヤ6:12-18
6:11 このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
6:12 肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
6:13 割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
6:14 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
6:15 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
6:16 このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
6:17 これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
6:18 兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。

明日が見えないというのは不安なものです。明日をくださいと祈ってみました。すると、明日はあげられないが、明日があるという希望だけ与えようと神様はおっしゃいました。明日という希望とは、なんだろうと考えました。それは、明日を生かしてもらうという希望です。だれも、明日、人生が終わるとは思いません。どんなに悩んでいても、明日があるということが、あたりまえだと思っています。

人は、安定したものが明日も、あさってもあると思って生きています。もし、それが無くなったときに、どうやって生きようかと苦しくなります。しかも、今が幸せでないと思っているなら、尚更、明日をどうやって生きていこうか、悩んでしまいます。明日の幸せを得るためになんとかしようともがきます。だから、生きていくのはしんどいことと言うのでしょう。

クリスチャンになったら人生が変わりますと言われることがあります。確かに私もそうだと思います。しかし、クリスチャンになったからといって何かこの世の中の富や名声が得られるわけではありません。何か、目に見える形の特権がもらえるわけではありません。クリスチャンでも、世の中のものを求めてしまうし、病気にもなるし、困難にもぶち当たります。悩んだり、苦しんだりします。しかし、この世的な幸せとは違う本当の幸せを手にする恵みを受けることができるチャンスがあるのです。

本当の幸せは、物質的なもの、更に、知識や道徳を追い求めても得られません。また、どこへ行っても得られません。幸せを人は熱心に求めますが、本当の幸せは自分の力で頑張っても得られません。仏陀は、自分の幸せを得るために様々なところに行き、いろいろ学び、厳しい修行を熱心に行いました。しかし、仏陀は、
そのいずれにも幸せを見いだすことができなかったのです。

人は自分の得てきたもの、持っているものを捨てたくありません。それを保つために、更に持とうとします。、ユダヤ教での習慣である割礼を求めた人たちは、クリスチャンになっても、何か形を求めて、安定を得ようとしたのでしょう。割礼があることで今までのものを失わないで、安心して生きていけると思っていたのでしょう。
形あるものがあれば、自分が幸せに生きていけると思っていたのでしょう。そして、それは、他の人にも当てはまると思い、他の人にも割礼を受けるように勧めたのです。

私たちが、社会通念上、生きていくには、大学を出なければとか、この分野で仕事するには、海外留学が必要だとか、言うのと同じです。これらは単に、統計的に、仕事をするときに有利に働きやすいというだけで、そうすることが大切であるということではありません。

何よりも、自分が本当に幸せに生きられるかどうかが大切なのです。つまり、新しく創造されるかどうかなのです。つまり、この世の何も誇らないということです。もっと言えば、この世の何にも執着しないことです。

しかし、人間は何か誇りたいですし、執着してしまいます。それなら、イエスの十字架だけを誇ればいいのです。十字架に徹底的に執着すればいいのです。もっと言えば、十字架にすがりついて生きるのです。だだ、これだけで十分なのです。自分の弱さやどうしようもなさを認めて、素直になって、毎日を生かしていただくのです。強くい正しく生きたい気持ちを持ちつつ、その裏にある弱さや脆さを正直に受け止めて生きることです。

そうすると、そんな不完全な人間であっても、優しさをもってお互い接し合うことができます。そして、身近なところに本当の幸せを発見するでしょう。イエスさまのお恵みは、どこにでもあります。その恵みに気づいたときに、どこでも本当の幸せを見つけることができるのです。
コリント1 9:16-23
9:16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。

9:17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
9:18 では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
9:20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
9:21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
9:22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
9:23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

私は、おいしい飴ちゃんを持っているとみんなにあげたくなります。自分の飴の数が減るにも拘わらず、一人で食べると不幸だからです。みんなで食べたほうがおいしさは倍増するねんよと堅く信じています。それは、大阪のおばちゃんだからそうするのかもしれません。強引かもしれないけど、飴ちゃんをあげないでいるより、あげて肯定的であれ、否定的であれ、相手の反応が返ってくるほうがはるかに嬉しいんです。ありがた迷惑かもしれませんが、そのへんはお許しを。

福音も同じだと思います。福音はいい知らせです。わたしにとってはおいしい飴ちゃんみたいなんです。今日の箇所を読んでパウロさん、私の気持ちよう分かってはるやんと思ってしまいました。いやいや、パウロさんのほうが先でしょう。あんたはパウロさんより偉いんかと言われそうです。人間はみんな同じよー。

だから、福音を伝えないとと思ったことは一度もありません。とは言うものの、がむしゃらに人に考慮せず、宣伝するのは好きではありません。相手があっての宣教ですから、できるだけ相手に合わせて相手の言葉で福音を伝えられたらいいと思っています。飴ちゃんは食べてもらってなんぼの世界ですから。相手といっしょに御ことばを食べて、おいしかったねと言えたら、私は今までよりも嬉しくなります。自己中心的と言われるかもしれませんが、基本は自分が幸せでないと、相手も幸せをあげられないから、福音を伝えるとき、自分もより幸せになっていくものでないと福音にならないんではないかと思います。

基本は嬉しくて嬉しくてただ、伝えずにはいられないどうしようもない気持ちが福音と言われる神髄だと思います。

今日、久しぶりに、絵画デボーション?をやってみました。実は、数年前から、聖書を読んで心に残った聖句を絵といっしょに描いています。仏教では、般若心経の絵付きのものとか、ありがたいことばと仏画を見かけますが、そんなものです。
結構、御ことばを書くと、写経みたいですが、心が落ち着きます。そして、絵を描くのが私は好きなので絵を添えてみます。

その後、御ことばを自分で書いて、絵を描いてみて、それを部屋の見えるところに飾っておきます。トイレでもいいです。そうすると、自然に目に入るので、心が落ち着いてきます。嫌なことがあっても、じっと見ていると元気になれます。不思議です。み言葉の力はすごい!


Beeの聖書日記-イザヤ57:19


今日は、旧約聖書のイザヤ書57:19です。「わたしは、唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者も、近くにいる者も。」

まさに福音は、唇の実りです。イエスさまは自ら十字架を通して豊かな土地になられ、私たちの唇に福音の実りをもたらせてくださいました。それは、本当の平和です。その平和はすべての人に伝えられ、分かち合って神の国とその義が実現されていくのです。とても感謝なことです。

マルコ9:13-29
9:14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。
9:15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。
9:16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、
9:17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。
9:18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
9:19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
9:20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
9:21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。
9:22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
9:23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
9:24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
9:25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
9:26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。
9:27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
9:28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。
9:29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

よく自分を信じなさいとか、自信を持つことが大切と言われますが、わたしは正直、自信なんか完全にもてないと思っています。自分は限りがあるので自分を信じ切れない部分がどうしてもあると思っています。自分を信じられなくてもいいと思っています。

今日の箇所は悪霊にとりつかれた息子の話しです。その息子の悪霊を追い出すのにいろいろ議論し、試みけれどもできなかったが、父親の「たすけてください」という祈りをイエスは、受け入れて悪霊を追い出しました。わたしたちは、自分の力で解決できないとなると、人に相談します。相談することはとても大切なことですが、それがいつも正しい結論とは限りません。また、完全に相談する人の問題を解決し、幸せにさせてくれるような結論を得ることができるとも限りません。ときに、人間だけで解決しようとするとき、攻撃性を伴い、お互いに傷つけあい、深みにはまり、暴力の連鎖から抜け出すことができなくなっていくこともあります。

父親が、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」という言葉には、これまでいろんな方法で息子を助けようとしたが、不可能であり、これからも、変わらないかもしれないという気持ちがありました。イエスは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言いました。これは、自分を信じなさいという意味ではなく、神が全能であることを信じなさいということです。この言葉に対し、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と答えます。大切なのは、自分の力ではできない、ただ、神様により頼むという姿勢です。


イエスと父親の会話から、私たちの信仰は、与えられるものであり、ただ、神により頼むことこそ大切であると教られます。私たちは、一般的に状況が悪いと、状況の性にしたり、自分には無理だと勝手に決めつけたりします。実は、どんな状況であろうと、自分の幸せにはあまり関係ないのです。もちろん、いやなことは嫌なことですけれども、そこからしんどいと思う気持ちを否定せず、父親のように
信仰のないわたしをお助けください。」と自分に正直であることを隠さないで助けを求められたらいいいと思います。そのうち、自分の思い通りになっていったり、自分の思いを越えた出来事がやってきたり、一見、今はしんどいなあと思う出来事が後でつながっていったり、不思議に楽しい人生になっていきます。


正直に自分がどうありたいかポジティブに願うこと、こうあってほしいと考えてよいのです。そして助けを求めていけば、その道のりもしんどいと思っても意外に楽しいんです。神様に一日、どんなプレゼントをもらったか数えるだけでも楽しくなってきます。


神様は、私たちの親です。親がその子供を不幸にしたいなどと微塵も思っておられません。むしろ、最高の幸せをくださろうとしています。私たちは、その気持ちを信じるだけでいいのです。そうすれば、神様は一人一人に応じた幸せをくださいます。その思いだけでもありがたいです。

イエスさまは「失敗してもいいから、安心して人生を歩みなさい。」とからみつく罪やとがを十字架で贖ってくださいました。それは、わたしたち自身がネガティブに決めつける考え方に囚われることなく、いつも心に平安をもてるように全能の神様とのつながりを回復してくださいました。このことを思うと感謝に尽きません。

信仰生活は楽しいものだと思っています。なんというか、ただで元気になれるのですからそれがあることはどんな薬よりも、知識よりも、体によい食べ物よりも、運動方法やセラピーよりも簡単です(もちろん、これらのものも否定していませんし、意味があると思っています。)。

本当に簡単?、それができれば、苦労しないと言いたくなりますが、もちろん、食事や運動のように自分の体を作り上げるため必要なもののように自分の幸せになるための心の訓練をしなければいけませんが。人それぞれ、その人に相応しいような方法が与えられています。そういう方法が見つかったらやってみるしかありません。そこで必要なことは示されていくものだと思っています。

聖書を読む、祈る、黙想する・・・このような時間をあえて一日の内で作ってみるといいと思います。食事や運動や仕事をするのと同様に神様との時間をもつことはとても大切だと思うのです。その中で神様に委ねて生きていく力が与えられていくのだなあと思っています。ありがたいことです。

特に、祈りは神様と私たちのつながりを確認するものです。

「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」というイエスの言葉は、自分の力を越えたものとのつながりはどんな悪をも追い出し、どんなことも可能であることを示しています。


感謝と祈りをもって毎日、生活できればなあと思います。