大河ドラマ『麒麟がくる』の紀行もいよいよ終わりが近づいてきました。その最後の目標はどこにするかは実はもう決めていました。
岐阜県山県市貴富町にある標高408メートルの山城・大桑(おおが)城。岐阜市街地から北へバスで約45分のこの地は実はあの『国盗り物語』の舞台ともなった城。戦国時代に入って衰微していた美濃守護の土岐氏。彼らが最後の居城としたのがここ大桑城であり、そしてこの城を落とされたことで遂に美濃国の大名としての実態を喪失しました。天文4年(1535)に土岐氏は枝広館からこの地へ移動します。それも単なる移動ではなく、やはり戦乱による緊迫化、家臣の勢力伸長による大名としての権威の衰退など明らかに凋落によるものでした。そして僅か16年後には「美濃のマムシ」こと斎藤道三によって守護土岐頼芸がここ大桑城から追放されたことでその歴史は終焉を告げました。
『国盗り物語』が成就した瞬間ですね。
そんな重要な城だけあってか昔は結構訪問者も大勢いたみたいです。ただ、ここは現代ではアクセスが非常にしにくい所にあります。まだ山県市内までは岐阜からそれなりにバスの本数があるのですが、ここから先は激減。1日数本しかないバス路線乗り換え、更に山頂の城跡では登山口までで20分、そこから約1時間の登山というかなりのハードコース。計画を練る時は非常に苦労させられました。これも今なら車で行こうと思っています。
約20分かけて辿り着いた古城山登山口。流石に直近で『麒麟がくる』をやっていたおかげか案内なども充実していました。さてのんびりウォーキングモードはここで終わり。ここからはかなりシンドイ登山モードに入ります。
しばらくは延々と続く山道をひたすら息を切らしながら登っていきます。この城、結構傾斜が急で道が険しい。あの登山口でのソフトさがフェイクに見えてきました。
それでも30分ほどするといよいよ番所址。地元では「岩門」と呼ばれ、倒れた岩石が残っています。
その脇にはこの急な傾斜面で補強するかのような石積みがありました。
馬場跡
堀切跡
どんどんと城の遺構が見えてきています。
竪堀跡
巨大堀切
ここは自然の谷を両側から急こう配に掘って、尾根筋を切断し、敵兵の侵入を防いだと考えられています。流石に日常はここに木橋が架けられていたようです。勿論は今はありませんので、この坂を上っていくことになります。
更に上がっていくといよいよ大桑城の曲輪群にたどり着きました。
こちらも斜面を補強するような石積み
大小様々な人工の石積みがあり、ここが紛れもない城跡で分かる貴重な遺構。
各所に残る石垣、それをきちんと見学ポイントはここという風に案内してくれるのでありがたいです。
難しい字で一瞬「?」だったのですが、臺所…台所のことです。この辺りには城主である土岐氏の一族や将兵が生活するための空間が置かれていました。
山頂まであと100メートルここから更に坂道は急になっていきます。
まぎれもなくあそこが最後のゴール。天守閣風の目印がこれ以上無いくらいゴールまで間近であると教えてくれていました。
最後の力を振り絞って、向かいます。
天主台址
もちろんまあ近世的な意味での「天守」ではありませんが、それでもここには物見台櫓的なものがあったのでしょう。
ここからは眺めも絶景ですし、更に岐阜方面からの動きを監視するのにぴったりです。
『国盗り物語』を記念して建てられたミニチュア「天守」これはこれで風情があっていいですね。
ここで今まで晴天だったのに粉雪がちらついてきました。流石に2月はまだ寒かったかな。
それにしてもよくもまあここまで登り切ったものだと自分でも感嘆してしまうくらいのかなりの高く険しい山城でした。
ここから北の美山側の方へと降りていきます。大桑城は先ほどの南側の「古城山」コースが大手道ですが、かなり急峻。一方の美山側は比較的緩やかなコースとなっています。
見つけたのは石垣!こっちの方も遺構がふんだんに残っており、南北2つのコースを縦断する方がベストです。
切井戸跡
ここは最後の当主である土岐頼芸が大桑城を落ち延びる時に、火砲の「金鶏」をこの井戸に隠したと伝承では謂れ、そのため元旦の朝にこの井戸から鶏の鳴く声を聞いたものは長生きできるという言い伝えがあります。
とはいえ、こちらもまたかなり下り坂としてはシンドイ道です。
猿馬場跡
この辺りにも随所に石垣があり、かつてはもっと立派な石垣があったのではないでしょうか。
こちらも帰りで約1時間で
到着