〇北陸・飛騨を2日がかりで弧を描く
早いもので旅を初めたのは2010年のこと、あれから早いもので9年が経ちました。その間、この国の光景は大幅な変化を遂げてきて、昔とはだいぶかわってきています。その中でも北陸本線は大分変ってきており、かつては敦賀~福井~金沢~富山~直江津まで日本海沿いを走る大幹線でしたが、北陸新幹線の開業によって一変。金沢以東はJRから第三セクター鉄道会社へと変わり、今では青春18切符ではいけない区間となってしまいました。そして早いものであと4年後には残る敦賀以北も新幹線が開業すると共に変わることを余儀なくされます。果たしてその時、青春18切符の扱いはどうなるのか?そしてもう北陸を旅することはできあいのかと気がかりです。そんなこんなで今回は
福井~富山~飛騨を回る旅行を企画してお送りします。

 

〇越前でのレンタサイクル旅

いつもは朝5時の始発に乗って旅をするのですが、この日は珍しく少しゆっくり目に(といっても6時出発)関西の自宅を出発。まずは京都まで行き、そこから湖西線に乗り換えます。

近江今津駅にて現在では普通列車で敦賀をまたいで福井まで行く貴重な列車となった8時21分、近江今津駅発福井行普通列車に乗車。まだ青春18切符の使用期間前だったために窓側座席に乗るのはそれほど苦労しませんでした。これが18切符使用期間となるとここでも地獄のダッシュの修羅場で座席の取り合いになるのですから。琵琶湖の光景を眺めながら、福井県へと列車は進み
福井の前の越前氏の中心駅・武生駅にて下車。
駅構内になる越前打刃物の展示が目につきます。ここ武生と鯖江は特急も一部停車する福井の工業地帯となります。
ここ武生はかつて越前国府の所在地であり、越前支配の中心でした。朝倉氏滅亡後の織田家時代には府中として記録に残っており、この時に前田利家・佐々成政・不破光治らがここに封じられ、一向一揆殲滅や戦後の再建の指揮をとっていたのでした。
さてここから目的地の小丸城までは5キロ以上離れています。バスの本数は限られており、実を言うと公共交通機関利用者にとっては非常に訪れにくい城。そこで今回の手段として利用したのが
武生駅前のプラザビル内にある観光案内所でレンタサイクルを利用すること。4時間で500円、これならかなり広い範囲をまわることができます。
日野川沿いから真っ直ぐ東へ東へと進んでいきます。周囲は長閑な田園地帯が広がり、幸いこの日は少し気温が低く、7月半ばといってもそれほど暑くはありませんでした。
そして僅かな住宅の中にぽつんと残る小丸城跡に到着、いまではすっかり草薮に覆われていますが、かつては立派な石垣を持つ近世城郭でした。現在でも石碑と共にわずかに石垣が草薮の中からその姿を見せています。
ここまでの道程、府中は流石に「越前の古都」だけあって古い寺や関連史跡がたくさん、できればもうちょっと時間があればゆっくり見て回りたかったです。
一応バス停が傍にありますが、ご覧の通り、1日2往復程度。やはり利用は難しそう。
さてそれでは城へと向かいましょうか。
「マムシに注意」嫌な看板だなぁ・・・特にこういう草むらだらけの場所では天敵と言っても良い。
 
3メートルほど残る石垣
 
 
この一角は綺麗に石垣が残っていましたが、他の箇所はというと草むらに埋もれているのか・・・それともやはり残っているのか判別できないのはつらい。
本丸入口にあたる穴蔵門
ここだけはきれいに城の石垣がそのまま門の形状をしており、往時にはやはり立派な近世城郭だったのでしょう。
その形状から本来は「門」というよりは「蔵の入口」であったのでしょう。
本丸跡に起つ石碑
穴蔵門上部
今となってはまともに城の遺構として残るのは本丸周囲のみですが、かつては300メートルに及ぶかなりの城跡であったと考えられています。しかしもはやそれらの遺構はすっかり埋もれ、わずかに本丸との間に空堀の跡を残すのみ

 

 
本丸周囲を一周しても15分もかかりませんでした。本丸跡には隅櫓跡や土塁跡などが残っており、地形からその姿をよみとくことができるのがせめてもの救い。
小丸城全景
それでは最後に帰りにもう一つ依っておこうと思った場所があります。
興徳寺
この寺にはある武将の墓所があり、

それがこちら

真柄十郎左衛門直隆の墓

真柄は朝倉の客将にして豪傑として知られ、太郎太刀と呼ばれる大刀を振るって奮戦したと言われ、姉川の戦いで単騎で徳川軍の只中に切り込んで討死したと言われる猛将、そんな真柄の活躍が非常に印象深かったのが

「信長の忍び」であったりします。
本作、ギャグ漫画の体裁ながら非常に細かいところまで史実をきちんと再現されており、特にこの真柄の最期の回なんて
装鉄城「あれ?これギャグ漫画だったっけ?」
一瞬思ってしまうほどクオリティ高かった。残念ながら最近の大河ドラマでここまでのクオリティが維持できているのってごく少数なのが現実です。というか大半は完全に負け
さて墓所を撮影する時には必ず手を合わせて故人への冥福を祈ってからしましょう。これはマナーです。

さてそんなこんなで2時間があっという間に過ぎ、すぐまた北陸本線に乗車して出発です。

 

〇一向一揆の暗部・越前の混乱

一向一揆というと大抵の場合、イメージとしては「信仰を守るために戦う本願寺門徒たちが仏敵・悪逆非道な織田信長に立ち向かった」というのが大河ドラマや歴史番組での映像でしばしば語られがちです。「素朴な信仰心で戦う信者」VS「弾圧する織田軍」などという構図は非常に分かりやすいのですが、世の中そんな単純なものではありません。そのことを象徴するのがここ越前での一向一揆であったと言えましょう。

 きっかけはそれまで越前国内の平和の守護者であった戦国大名・朝倉義景が信長によって滅ぼされたことから起こりました。信長は越前の統治を当面、寝返った朝倉旧臣に一任していたのですが、彼らの結束は端緒から無いに等しく、半年もしないうちに内乱が勃発、それらのドサクサに放棄した一向一揆によって越前は「一揆の持ちたる国」となりますが、更なる混迷をもたらしただけでした。一揆の主体であった越前門徒(地侍や百姓)が「共和制」を指向していたのに対して、加賀の金沢御堂から派遣された軍事顧問団は越前を「軍政下」におこうとし、そして本山の石山本願寺は本願寺が全てを統べる「宗教国家」を目指すために政治指導者の聖職者を派遣。この結果、三者はそれぞれに対立した結果、「一揆内一揆」という内ゲバが発生。それは織田との戦争におかる軍資金調達のために聖職者たちが苛烈な年貢や賦役を課したのが原因でした。結果、一揆による蜂起前よりも生活が悪化する事態に地元の門徒たちは

門徒「これじゃー一揆前の方がまだマシだ!!」とまで叫ばれるほどだったのです。

 

「坊主達には後世こそ頼みたれ。あるひは下部のごとく荷を持たせ、あるひは下人のごとく鑓をかたねさせ、召使はるること、いつこう心得ざる次第なり。
桂田・富田を退治したることも、国郡を進退せんと思ひ、われら粉骨をつくしてこの国を打取りけるに、何とも知れざる上方の衆がくだりて、国を恣(ほしいまま)にいたすこと、所存のほかなり」

(訳:坊主どもは念仏唱えてりゃいいんだよ!そのくせ俺らをアゴでこき使いやがって!そもそもあの桂田や富田を退治したのも、国全体を手に入れたのも全部俺達の力じゃねーか!それなのに後から来た教団の連中が好き勝手するなどもう我慢ならん!!)
『朝倉始末記』より

かくして越前一揆はズタボロになり、天正3年(1575)の織田軍再侵攻の前になすすべもなく瓦解。何しろ侵攻開始一日で府中まで進撃していたというから実質的に機能不全に陥っていたと言えるでしょう。結局、後に残されたのは苛烈な織田軍による関係者への徹底的な殺戮という阿鼻叫喚の地獄絵図だけでした。朝倉家の滅亡から2年、それまで四半世紀の平和が保たれた越前は壮絶な内戦でボロボロになったのでした。この辺、大国の介入がきっかけで壮絶な混迷の果てに収拾のつかない内戦と化した21世紀の中東を彷彿させます。

 

 さてその結果、新たに越前は織田家の統治下の置かれ、柴田勝家のもとで再建統治が進められることになります。この時、彼の配下に先の「府中三人衆」でその中で小丸城を築いたのが佐々成政でした。その歴史は成政が天正3年(1575)の府中再侵攻後から越中へ移封するまでの天正9年(1581)までのほんの六年ほどのことでした。この城跡から発見された瓦から

「五月十四日、一揆起こり、其のまま前田又左衛門尉殿、一揆千人はかり、生け捕りさせられ候也。御成敗は、磔、釜に煎られ、焙られ候哉。」

と前田利家による苛烈な一揆衆を弾圧していたことが伝わる資料となっています。

 

〇アクセス

JR北陸本線武生駅からレンタサイクルで30分
 
「小丸城に狼煙が一本・・・」