薩摩藩の財政が苦しかったのは、101話で書いた通りで、その苦しい財政のうえに、島津重豪の蘭碧のおかげで、さらに苦しくなってしまいます。
そんな中で、島津斉興が藩主になります。
1827年頃、財政の苦しさの、しわよせは領民への厳しい取り立てとなってしまいます。
多くの農民らは、あまりの厳しい取り立てに苦しみ、他国へ逃げてしまい、土地は枯れ果ててしまいます。
家臣達からも棒録を借し上げ、男は刀剣を売り、女は髪道具を売って献金しなければならない状態になり、その頃の藩の借金は500万両だったみたいです。
こんな状況にしてしまった重豪は、もう隠居してますが、なんとかせねばと思い、調所広郷(ずしょひろさと)に財政の立て直し(財政改革)を命じます。
調所広郷によって、天保の改革が始められ、特産品開発、改良、販路の合理化、五百万両の負債の無利子二百五十年賊、偽金づくり、琉球が窓口の密貿易、奄美大島などの奄美諸島の黒砂糖の専売強化など、あらゆる手段で改革を進めていった。

調所広郷は長年、島津重豪の側近として勤めていたので、島津重豪は調所広郷の能力の高さをよく知っていた。
ある日、島津重豪は調所広郷を呼び出し、
「調所よ、藩の財政の立て直しを命じる、やってくれるな」、
「いや、拙者には、とてもできません、この任に関しては、お許しを」、
「いや、その方ならできる、その方の力を見込んで頼む、やってくれ」、
調所広郷は、うつむいて、しばらく考えていたが、島津重豪の必死の頼みに、断わることができずに、
「わかりました、この調所広郷、やらせていただきます」、
こうして、調所広郷は決死の思いで立て直しにかかったが、なんともならない状況だったが、数年経つと何とか起動し始めてきたときに、島津重豪は高齢のため死んでしまいます、89歳でした。
こうして隠居していたが、なかなか藩の実権を離さなかった島津重豪が死に、藩主の島津斉興が、ようやく藩の実権を握ることになります。
島津斉興は調所広郷の働きを見ていたので、信頼し家老格にして、そのまま藩の財政の立て直しを任せます。
それで調所広郷も、今まで以上に頑張ります。
それから10年以上経つと、藩の財政は、すっかりと立ち直り、1844年頃になると、百五十万両の非常準備金ができるほどになり、江戸、大阪、国許の薩摩に貯えておけるぐらいになった。
これで、島津斉興は、ホットした、ホットしたが島津斉興は、祖父の島津重豪の西洋好きが招いた結果が、
「西洋好きになると、いったいいくら金が必要になるか」と、
ここでまた、島津重豪に似て、西洋好きの島津斉彬が次期藩主になれば、また同じように、財政難になってしまうのではないかと心配になり、次の藩主は島津久光にしようという気持ちが強くなった。

つづく。