神の鳩(1)
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いざ瓦礫の山を前にすると、やはり幸子の足はすくんでしまった。
瓦礫を覆う黒土の、家畜の糞のようなどす黒さと独特の悪臭が、あまりに生々しく、幸子の全ての感覚を麻痺させてしまったのだ。
解体工事が中断され、半壊状態の木造校舎は、そのおぞましい黒土が積み上げられてできた、いくつかの山々の合間で、そのみすぼらしい姿をさらしている。
それには、ごみ御殿という形容がぴったりだ。
しかし幸子は、それでもひるまずに、しっかりとその山々を見つめ直した。
そうしなければならないのだ。
なぜならそれは、幸子に与えられた罰なのだから。
じっと噛みしめるのだ。
雪子が、こんな荒んだ、おぞましい場所にずっと埋もれていたのだという事実を―
その時、雪子の風化し、ぼろぼろになった白骨が発見された時の状況が、頭の中に浮かんでくる。
実際に見たわけではないのに、妙にリアルにだ。
幸子は頭を激しく揺さぶり、そんな忌まわしい映像を振り払うと、あの頃のもの静かで、透き通るような白い肌をしていた、雪子の俯いた顔を、必死になって思い出そうとした。
だが、今まで雪子の記憶を封印しようと、さんざんもがいてきた幸子だ。
今の今になって、はい、記憶を戻してあげるよと、神様がそう簡単に許してくれるはずもない。
どうあがいたところで、神様は幸子に、いやがらせのように残酷な映像しか見させてくれないのは、明々白々だ。
幸子は思わず目を閉じ、合掌した。
今にも心が粉々に砕け、発狂寸前の状態にある自分を制御するには、そうする他になかったのだ。
「さっちゃん、そろそろよ」
すると後方から、弾けるような声が響き、静寂の空間を引き裂いた。
幸子は、それがうっとおしくもあり、ありがたくもあり、複雑な思いにかられた。
振り返ると、ゴム毬(まり)のように丸々と太った巨体を揺さぶりながら、悦子がはしゃいで手招きしている。
ああ、いよいよだ。
幸子は覚悟を決めると大きく頷き、ゆっくりと皆がいる運動場の片隅に向かって、歩き始めた。
それにしても、あれから二十五年も経つというのに、よくこうも簡単に、タイムカプセルを埋めた場所を特定できたものだ。
あの当時、運動場と外側の道路とを仕切る鉄柵の付近に、カプセルを埋めたというのは覚えている。
しかし、確固たる目印をつけた記憶はない。
担任の井上敦子先生は、きちんと、埋めた場所と鉄柵との距離を、計測でもしていたのだろうか?
すると、ふと昔を思い出す。
あの頃、井上先生は雪子のことを、猫かわいがりしていた。
だが、当の雪子は、なぜか先生のことを嫌っていた。
雪子は勉強ができる子だった。
しかし体が生まれつき弱く、体育の授業は休みがちだった。
大抵の先生なら、学業は申し分のない子だからと、体育の成績くらい、ある程度のことは大目に見て、通信簿の成績をBにしてくれるだけの温情は持ち合わせていた。
だが井上先生は、たとえお気に入りの雪子といえど、体育の評価は容赦なくCにした。
井上先生には、そんな妥協を許さない、不気味なほど厳格な一面があったのだ。
そんな井上先生のことだ。
カプセルの場所も、きちんと分かるように計測して、記録を残していたとしても、なんら不思議はない。
幸子はそんなことを考えながら、ゆっくりと皆のいる場所へと、戻っていった。
当時は二十代だった井上先生も、今ではすっかり老け込み、頬も体も大分たるんではいたが、それでも上品な笑顔はあの頃のままで、今の幸子の心境など知る由もないといった風に、優しい笑みを湛えている。
長かった。今日でやっと、雪子の呪縛から解放されるのだ。
罪の重さに潰されそうになっては、ぎりぎりの所で耐え、自分の幸福をキープし続けてきた幸子だった。
だが昨年、愛していた夫、雅人をあっけなく交通事故で失い、もう後には何も残されていない。
もはや耐え忍ぶ理由などなかった。
「みんな集まりましたね」
幸子がようやく、集合地点に戻ってきたのを確認すると、井上先生がしわがれた声で、皆に呼びかけた。
その傍らには、大きなシャベルと鍬を二つ三つ積んだリアカーが一台、前のめりに置かれている。
「それでは、歓談の場が盛り上がってはいますが、この辺でそろそろ儀式を始めようかと思います。昭和五十八年度、橘第一小学校六年五組の卒業生の皆さん。残念ながら、この度、私たちが学び育った、この思い出深い学校が、廃校となることに決まりました。いずれここには、市立図書館が建設される予定です。あの当時、21世紀の自分に宛てて書いた手紙や作文をここに埋め、21世紀を迎えてすぐに掘り起こす予定でした。しかし今こんなことになって、切りのいい時のほうがよろしといかと思い、あえて廃校にあわせ、本日掘り起こすこととあいなりました。もうあれから二十五年も経つのですね。私も、時の流れの早さに、うんざりする歳になりました。でも皆さんにはまだまだ、輝かしい未来があるのです。あの時、ここに埋めたカプセルを、皆で再び手に取り、幼少期だった頃を懐かしむと同時に、今日まで生きてきた証を噛みしめることで、人生をここでリフレッシュさせ、新しい明日へ向かって、生きていって頂けたらと願うばかりです」
皆が一斉に、先生に向けて拍手を浴びせる。
幸子も震える手で、気の抜けた拍手を送っていた。
「さあ、それでは掘り起こしましょう。前列の人から順番に、土にシャベルを入れてください」
先生が悦子に目配せして合図を送る。
すると悦子は、せっせと前列の男連中に、シャベルと鍬を配り始めた。
そして準備が整うと、先生が号令をかけた。
「それではいいですか? せえの」
それに合わせ、男連中が一斉に、土の上に鍬とシャベルを振り下ろしていった。
すると、みるみるうちに赤茶色の土が削げ、穴が奥に向かって伸びていく。
いよいよあの「連絡ノート」が白日のもとにさらされるのだ。
そして自分が犯した大罪も―
幸子の全身は、緊張のあまり次第に鋼のように硬直し、聴覚はばくばくと激しいビートを刻む、心臓の鼓動音だけに支配されていった。
(つづく)
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