ダニール・トリフォノフ ピアノ・リサイタル (2月10日・サントリーホール) | ベイのコンサート日記

ベイのコンサート日記

音楽評論家、長谷川京介のブログです。クラシックのコンサートやオペラなどの感想をつづっています。

プログラム:

チャイコフスキー「子どものためのアルバム op.39」

シューマン「幻想曲 ハ長調 op.17」

モーツァルト「幻想曲 ハ短調 K.475」

ラヴェル「夜のガスパール」

スクリャービン「ピアノ・ソナタ第5番 op.53」

アンコール:J.S.バッハ(M.ヘス編)コラール「主よ、人の望みの喜びよ」

 

ダニール・トリフォノフを聴くのは三度目。

最初は10年前、2013年6月14日のオペラシティでのリサイタル。「アンコール最後の《火の鳥》“凶暴な踊り”は、まさに驚天動地。トリフォノフは宇宙人なのではないか?恐ろしいスピードの早送りフィルムのように鍵盤の上で両手が踊っている」と感想を書いていた。

https://ameblo.jp/baybay22/entry-11552415023.html

 

二度目は6年前2017年9月16日、東京芸術劇場でのコルネリウス・マイスター読響とのプロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番」。「ファツィオリのピアノで、華麗かつ鋭利な響きを作り出し、自分の奏法とスタイルを貫き通すトリフォノフ」とこちらはやや醒めた目で聴いていた。

https://ameblo.jp/baybay22/entry-12311326856.html

 

6年ぶりに聴くトリフォノフは、“巨匠”と呼びたくなる風格と芸術性を感じさせた。
解釈と表現の奥行きの深さ、音色の多彩さ、作品と作曲家への深い洞察から生まれるドラマティックな描写力が飛躍的に高まっていた。

 

前半のプログラムのテーマは『愛』だと思う。

1曲目のチャイコフスキー「子どものためのアルバム」全24曲の温かく優しさに満ちた表情は、トリフォノフの子どもたちに対する愛情としても感じられた。

 

シューマン「幻想曲」は、シューマンのクララへの愛の告白でもある。第1楽章第2主題はクララその人のようであり、中間部の「昔語りの調子で」はクララと彼女の父親への苦く甘美な思い出であり、第3楽章はクララへの献身的な愛のメッセージでもあるのではないだろうか。

演奏を通じて、これらの愛の世界とトリフォノフの愛の世界が重なり、二重写しになっているように感じられた。これは想像だが、トリフォノフはプライヴェートでも今や穏やかな愛に包まれた生活を送っているのだろう。

第3楽章の大きく羽根を広げて飛翔していくような、心からの愛の讃美はとてつもなくスケールが大きく、ただただ圧倒された。

 

後半のテーマは『悪魔的、デモーニッシュ』とも言える。モーツァルト「幻想曲」ラヴェル「夜のガスパール」スクリャービン「ピアノ・ソナタ第5番」という一癖も二癖もある作品が並ぶ。

 

トリフォノフの演奏自体も鬼神・悪魔に憑りつかれたような、妖しく異様な世界を感じさせた。

 

モーツァルト「幻想曲」は、アレグロでの激しい表情と、ピウ・アレグロからの32分音符の激しい動き、冒頭の主題がハ短調で回帰したさいの不気味な表情など、ロマン派を先取りするモーツァルトの前衛性をトリフォノフが明確に打ち出していた。コーダの64分6連符の上行の切れ味も凄まじい。これには息を呑んだ。

 

ラヴェル《夜のガスパール》こそ、妖精、不気味、妖怪の世界。
「オンディーヌ」はクライマックスの激しいアルペッジョが圧巻。左手、次に右手で鍵盤をなぜるように弾くアルペッジョは妖精が鍵盤の上を走るよう。

 

「絞首台」は静かな狂気。「あたりには鐘が鳴り響き 首吊り人の亡骸を夕陽が赤く染めた」というアロイジウス・ベルトランの原詩の光景のぞっとする感覚が肌で感じられるような演奏。

 

「スカルボ」の動きの速さは、10年前の宇宙人のような超高速の動きの再現に近かったかもしれない。ただ動き自体はもっと滑らかで、柔軟で、緻密だった。反復音、手の交差、大きな跳躍、和音の素早い連動、急速な装飾音が精密に、しかしすべてが滑るようにスムーズに弾かれていく。トリフォノフの場合は超絶技巧と強調しなくとも、すべてが自然に何事もないように進む。

 

最後の曲、スクリャービン「ピアノ・ソナタ第5番」は6日間で書き上げられた単一楽章の11分ほどの作品。法悦的な主題が長大な展開部で展開されていく。401小節からのアレグロと441小節からのプレストのコーダは豪快、強烈だった。

 

立ち上がって拍手を贈る聴衆も出るなど興奮の会場を鎮めるかのように、トリフォノフはJ.S.バッハ(M.ヘス編)コラール「主よ、人の望みの喜びよ」の祈りの旋律をゆったりとしたテンポで奏で、静かな感動で締めくくった。