(6月15日、サントリーホール)
チャイコフスキー「マンフレッド交響曲」は初めて聴く「原典版」。第4楽章で第1楽章の終結部が壮大に回帰して劇的に終わるバージョンだ。マンフレッドは救済されないまま終わる。交響曲としては劇的に終わるけれど、個人的には小林研一郎の指揮で二度聴いた(日本フィルと読響)オルガンが鳴り響き、コラールと共にマンフレッドが救済され静かに終わる「改訂版」の方が余韻を感じられるので好きだ。
それにしても版の違いを置いて、スダーンと小林の「マンフレッド交響曲」はなんと異なる表情を持っているのだろう。スダーンは音色が明るく軽やかでヨーロッパ的に洗練されている。一方の小林はロシア風に(私的には日本の浪花節的に感じられるのだが)情感たっぷりの粘り気のある演奏を聞かせた。
チャイコフスキー自身はヨーロッパで認められることを願っていたはずであり、その点でいえばスダーン&東響の演奏のほうが作曲者の好みかもしれない。第1楽章や第2楽章で登場するマンフレッドの亡き愛人「アスタルテ」の2つの異なる主題は、そうしたスダーンの指揮が生かされ、チャイコフスキーのバレエ音楽のような優雅な雰囲気を醸していた。第3楽章「山岳人の自由な生活」の牧歌的な表情ものびやかに描かれた。
ゲスト・コンサートマスターに郷古 廉を迎えて、東響のヴァイオリンの音も洗練されていたように感じたが、それがスダーンの指示なのか、郷古のリーダーシップのためなのかはわからない。
このコンサートでは、特にオーボエの荒絵里子の存在が光っていた。「マンフレッド交響曲」では、彼女のソロが出るたびに音楽に気品が増す。それがさらにはっきりと出ていたのが、プログラム前半の菊池洋子をソリストに迎えたシューマン「ピアノ協奏曲」だ。
管弦楽とピアノによる序奏に続いて荒絵里子のオーボエが奏でる第1主題の音楽的な深みとみずみずしい表情は、シューマンの本質を余すところなく明らかにしていた。「これこそシューマンの音だ!」と聴き手の心をわしづかみにする深みがあったと言ってもいいだろう。同じ旋律がピアノに受け継がれるが、音楽的な深みの点で差は歴然としていた。
荒を首席に抱える東響はなんと恵まれたオーケストラだろう。文字通り東響の宝と言ってもいいのではないだろうか。演奏後の拍手も、スダーンが荒絵里子を讃えて立たせた時が最大だったかもしれない。