1814-ジャン・フランソワ・ミレー | バルビゾンの風

バルビゾンの風

バルビゾン派(バルビゾンは、École de Barbizon)は、
1830年から1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。
フランスのバルビゾン村やその周辺に画家が滞在や居住し、
自然主義的な風景画や農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。

【1814-ジャン・フランソワ・ミレー(1814~1875)】
JEAN-FRANCOIS MILLET

ジャン・フランソワ・ミレー
        真の農民画家
 
 『生まれながら農民である私は、農民として死ぬのだ』と言ったミレーは、バルビゾンの村で正に農民の暮らしをして、名作を描いた。彼にとって一枚のカンヴァスは一枚の畑であり、彼はそこに愛と労働の全てを捧げて素朴な花を咲かせて、実を実らせてきた。与えられた運命に逆らうこともなく、逆境に耐え、人を愛し、勇気や信念をも失うことのなかったミレーは後の世の芸術家の心の支えとなったが、その精神こそ荒地を耕すノルマンディ地方の農民の不屈の精神でもあったのだ。
 ジャン・フランソワ・ミレーは1814年10月4日、コタンタン半島の北端、シュルブール近くの小さな村、グリュシーで生まれた。家は農家で、両親は一日中、畑に出て仕事をし、ミレーは信仰深い祖母に育てられた。ミレーの父は村の聖歌隊の隊長などをした人で、その地方ではかなり人望のある人であった。1833年19歳の時にミレーはシュルブールに出て行き、ムーシュルの所で絵を学ぶが、父が病に倒れたため、修業を中断して故郷に帰り、父に変わり農作業に従事した。1835年ミレーは再びシュルブールに出て、今度はその地方の第一級の画家ラングロアに師事した。ラングロアはミレーの才能をみとめ、彼の尽力によりミレーはシュルブール市から奨学金を得、1837年23歳の時に初めてパリにやって来た。
 パリではポール・ドラロッシュのアトリエに入り、2年ほどそこで学んだ。しかし、ローマ賞候補を選考する際、ドラロシュがミレーに、ある特定の生徒に候補を譲るように迫ったので、ミレーはドラロッシュのアトリエを去った。
 1840年26歳でサロンに2点の作品を送った。彼の父の肖像と友人のマルロの肖像だった。そのうち父の肖像が入選し、そのニュースはシュルブールにも伝わった。ミレーは休暇にシュルブールに帰り、その土地の名士の肖像を描いた。1841年27歳彼はシュルブールで1821年生まれの20歳のポリーヌ・オノと結婚式を挙げた。
 1842年28歳で新妻を連れてパリに戻って来た。しかしパリにおける生活は不幸の連続であった。サロンに送った絵は落選し、肖像画の注文も殆どなかった。貧窮のどん底で1844年30歳で、ポリーヌポーリーヌ=ヴィルジニー・オノは23歳でポリーヌは結核のために病死した。この時期が生涯で一番不幸だったとされている。
 1844年ミレーはシュルブールに戻り、そこで知り合ったカトリーヌ・ルメールと1845年に結婚した。カトリーヌとの正式の結婚式は1875年、ミレーの死の直前に行われました。この肖像画の女性は村内美術館にある絵、当時18歳になるミレーの2度目の妻、カトリーヌ・ルメールである。1844年に最初の妻ポオリーヌ・V.オノを亡くしたミレーは故郷シェルブールに戻り、肖像画や風景画を描いて暮らしていた。カトリーヌと出会ったのはちょうどそのころであった。カトリーヌは1827年にブルターニュ近郊の貧しい農家に生まれ、シェルブールで家政婦として働いていた。当地で格式のあるミレー家はこの再婚話に反対であったため、2人は駆け落ち同然でパリへ出る。正式な入籍はミレーの祖母や母が亡くなった後の1853年9月になる。農家の娘らしく、体が丈夫で働き者であったカトリーヌは、苦しい家計のなかで9人の子供を育て上げ、家事や畑仕事など一切をこなし、夫をいたわり、画業に専念させた。いわばミレー芸術を大成に導いた大恩人といえよう。
 本作は1894年、彼女の没後の売り立てに出たものであり、最近になって再発見された。彼女の肖像画は油彩画ではこの1点が存在するのみであり、少なくとも4点が確認された前妻ポーリーヌ・V・オノの肖像の場合とは対照的である。
 この作品が描かれた時期はミレーの「華やかなる手法」の時代に属するが、すでに1840年代後半の力強い裸体画や農民画に見られる、彫刻的なたくましい肉体表現が先取りされている。つまり、通常の注文肖像画に必要なモデルの理想化を大古なわず、画家の内縁の妻というきわめてプライベートな視点から、ミレー本来の芸術思考を素直にあらわしたおである。彼の写実精神の出発がうかがあえる点で、画期的な作品といえよう、この絵は村内八王子美術館にあった絵である。
 ミレーが農村のテーマによる新しい作風の境地をひらいたのは、数年来のジャガイモの大凶作がもたらした1848年2月革命直後、1848年のサロン出品作品《箕をふるう人》によってでした。翌1849年にはパリで猛威をふるったコレラを避けて家族とともにバルビゾンに移り住み、以来、バルビゾンで、無名の農民を主役にした作品を制作しつづけます。そして1850年に《種蒔く人》をサロンに発表。この年のサロンにはクールベが《オルナンの埋葬》を出品し、写実主義の決定的な誕生を見るに至った時期といわれています
  しかし、ミレーは経済的困難をともなう生活を強いられました。ミレーの作品の一部が批評家や大衆に認められず、農民に反乱を教唆するものとして激しい攻撃を受けることすらあったために、売れなかったのです。とくに1857年のサロン出品作品《落穂拾い》、1863年のサロン出品作品《鍬をもつ男》が激しい批判にさらされ、子だくさんのミレーは、絵画や版画をごく安い値で売ることを強いられました。その1857年の出品作品は出品時に、友達のデュプレが自分の故郷の応援者のバンデラ氏にお願いして購入してもらったのです。
 ようやくミレーが最初の大成功をおさめたのは、1864年のサロンに発表した《羊飼いの少女》で、それ以降、作品の評価が急激に上昇します。1867年の万国博覧会で1等賞のメダルを獲得して以来、注文が増え、栄誉が与えられたことで晩年の10年間の生活は以前よりも楽になりました。1868年、レジョン・ドヌール勲章を授与されます。

 1875年1月20日、バルビゾンで死去。シャイイの墓地に友人テオドール・ルソーと並んで埋葬されました。ミレー没後、1889年には、《晩鐘》がパリのオークションにかけられ、フランス政府とアメリカ芸術家協会の一騎打ちとなり、当時としては史上最高の80万フランという高値を記録します。ミレーの《晩鐘》《落穂拾い》《羊飼いの少女》は、その後世界中で複製され、彼の名を不朽のものとしました
 
<ジャン=フランソワ・ミレー 年表>
1814年 10月4日、フランスのノルマンディ地方、グリュシーに生まれる
1837年 シェルブール市の奨学金を得てパリへ、国立美術学校のアトリエに入門
1839年  パリでの生活に馴染めず、そしてローマ賞に落選したこともあり退学
1840年 「ルフラン氏の肖像」がサロンに初入選
1841年 ポ-リーヌ・ヴィルジニー・オノと結婚
1844年 妻ポーリーヌ・ヴィルジニー・オノが肺結核で死去
1845年 後の再婚相手カトリーヌ・ルメールとパリで生活を始める
1846年 カトリーヌ・ルメールが第一子を出産
1848年 無審査のサロン(アンデバンダン展)に出品した「箕をふるう人」が政府に買い上げられる
1849年 当時流行していたコレラを避けて、パリの南東60kmのバビルゾンに移住
1853年 「刈り入れ人たちの食事」がサロンで二等賞を得る。以降サロン無審査となった。カトリーヌと正式に結婚
1857年 サロンに「落ち穂拾い」を出品するが、保守的な批評家から貧困を誇張している、などと議論を呼ぶ
1859年 依頼により「晩鐘」を制作
1864年 「羊飼いの少女」がサロンで1等賞獲得
1868年 レジオン・ドヌール勲章を受章
1870年  普仏戦争にともないシェルブールに移住
1870年 サロンの審査員になる
1875年 1月20日、バルビゾンで死去


【作品名】秋の雁 (1865作)
【種類】鉛筆デッサン
【サイズ】19.5×30.3cm


【作品名】秋の雁 (1865年作)
【種類】エッチング
【サイズ】68×52.8 cm


【作品名】肥料を取り込む農夫(1855年)
【種類】エッチング・DE L´ART M11
【サイズ】16.3×13.3cm


【作品名】水をくむ女(1862年)
【種類】ガラスステロ版
【サイズ】28.5×22.2cm


【作品名】母親の用心(1862年)
【種類】ガラスステロ版
【サイズ】28.5×22.2cm


【作品名】 耕す人(1855年)
【種類 】 エッチング・DE L´ART M13
【サイズ】23.7×33.7cm


【作品名】落ち穂拾い(1856年)
【種類】エッチング版DEl‘ART M12
【サイズ】19×25.2cm シートサイズ24.2×35.9

※ミレーの版画は、油彩やパステルに比較すると数が少ないです
20点のエッチング、6点のリトグラフ、2点のガラス版画、
3点の木版画を制作しているにすぎません



【作品名】羊飼いの少女(大)(1862年)
【種類】エッチング版
【サイズ】31.7×23.6cm


【作品名】牛乳をかき回す女(1855年)
【種類】エッチング版
【サイズ】17.9×11.9cm
※ミレーの版画は、油彩やパステルに比較すると数が少ないです
20点のエッチング、6点のリトグラフ、2点のガラス版画、
3点の木版画を制作しているにすぎません


【作品名】鋤に寄りかかる男(1848年)
【種類】エッチング版
【サイズ】8.5×6.7cm
※ミレーの版画は、油彩やパステルに比較すると数が少ないです
20点のエッチング、6点のリトグラフ、2点のガラス版画、
3点の木材版を制作しているにすぎません


【作品名】ミルク粥 (1861年)
【種類】エッチング版DE L´ART M17
【サイズ】15.8×13cm
※ミレーの版画は、油彩やパステルに比較すると数が少ないです
20点のエッチング、6点のリトグラフ、2点のガラス版画、
3点の木版画を制作しているにすぎません


【作品名】湖上のボート
【種類】ペン・インク
【サイズ】14×20cm
※「Robert Kashey」証明書付き


【作品名】羊飼いの少女
【種類】ヘリオグラビュール
【サイズ】22.3×14.6cm


【作品名】山羊の番をするオーヴェルニュの糸紡ぎ女
【種類】デッサン(紙に鉛筆)
【サイズ】27.2×42.3cm
※「Claude MARUMO」鑑定書付き


【作品名】森と樫の大木 1851年作
【種類】リトグラフ
【サイズ】53×50.4cm 
※DE L`ART M24 


【作品名】畑に向かう農夫(1863年作)
【種類】エッチング
【サイズ】38.5×31cm 
※DE L`ART M.19


【作品名】牛のデッサン
【種類】紙に鉛筆
【サイズ】20×22.5cm 


【作品名】接ぎ木をする農夫 1854年作
【種類】紙に木炭とクレヨン
【サイズ】32×49cm(紙) 
『Claude Aubry』証明書付き
マット下にスタンプサインと補足的デッサン『鵞鳥と鶏』
紙裏にもスタンプサインとデッサン『ロバと鶏』
来歴:常時・M・ジャフィン夫婦/個人蔵(ニューヨーク)





【作品名】縫物をする女性
【種類】エッチング・DE L´ART M9
【サイズ】10.5×7.4cm 



【作品名】牧草を食う雌牛と女 (1857年)
【種類】紙に鉛筆
【サイズ】12.4×15.9cm
※「Alexandra R.MURPHY」証明書付き


【作品名】木に肘をつく農夫
【種類】紙に木炭
【サイズ】46.5×30.5cm

★バルビゾン七星とは?★