昨日のお話「セイヤング」を書いたらこれは書かないとダメですよね(^^)
A:1980年にこの「セイヤング」を浜田省吾さんが担当してるわけなんですけど、その1980年当時は、なんかじゃあ頑張ったら次が来そうだっていうのが見えてきた頃なんですかね?
H:コンサートツアーっていうものを、ブッキングっていうんですけど、各地のイベンターが少しずつしてくれた時代ですね。
まだコンサートツアーが誰でもやってる時代じゃなかったので、コンサートツアーがいまみたいな形になるほんとにほんとに初期の頃ですね。
だからやっと、そうですね、どのくらいなんだろう。
年間にして60本、80本、100本と増えてきた、ちょうどそういう時代。
ですから、武道館よりも前ですから、まだホールでコンサートやってもお客さんが町によっては2、300人。
町によっては満杯
でもアベレージにすると、600人とか。
ほんとにだから1階席のうしろがまだ空いてるっていうような、そんな時代ですね。
A: 手元に1980年の1月4日(おそらく1/8の間違い)旭川市公会堂から始まって、12月25日に倉敷市民会館でこの年は、あのツアーって言うんですか。毎月ずっと10ヶ所程度やってるんですけど。
H:まさにそれがツアーなんですよね。
A: 今ツアーって言ったら例えば10本とかね、12本とかまぁ多くて20本をひとつきに8とかね、ぐらいやって、3ヶ月ぐらいで終わるってのがまぁ常識的なところだと思うんですけど。
ほんっとに年中旅してるんですね。
H:ずぅっとやってるんですよ。延々と。エンドレスな感じで。
A: 考えられないのは、当時のツアーとか見ると、広島、年間3回ぐらいやってるんですよね。
H:やってますね。広島の中だけで10箇所ぐらいとかね。ま10箇所は大げさですけど。
A: 近くで、福山やったりとか、お隣ですけど岩国でやったりとか、ほんとにいろんなところ、これこそ回ってるって感じですね。
H:そうですね。でもそれをほんとはツアーって言うんですよね。
だから年間30本以下はツアーとは言わない(笑)
A:ほんとに旅をしてた。よく浜田省吾さんはマスコミにさほど出ないのは、自分が得意なものが、ライブという形で曲を表現するのが一番得意だからという風に言われますけど、まさにライブで伝えてきたんだなぁっていうのが。
おそらく今のリスナーの多くは、そんなライブで伝えたって、伝えられる人の数とか限られてるでしょと思うと思うんですよ。
この記録を見れば、ライブで伝えたんだなって、あの行商じゃないですけど、旅をして、そこで商売して、じゃないけど。
H:そうです、そうです。だからコンサートやって、そこに来た500人、600人のお客さんの何パーセントかの人がレコードを買ってくれて、それがこうずうっとつながってったという感じですよね。
A:ほんとにPerson to person.のコミュニケーションが広がって行って、浜田省吾の今が積み重なっていくっていうのがこのあたりから始まってるんですね。
H:そうですねぇ。
だから、まだお客さんも乗り方っていうのがまばらで、今でこそみんなアップテンポの曲が始まると立って踊ったりしてますけど、みんなまだ座って手拍子をこうするかなっていう時代ですよね。
そんな時代。
どんなにハードな曲をやってもみんな座って手を叩く程度の、ある日いきなり誰かが立ち上がったら、今度は全員が前にいて、うしろはがらがらで全部が前にいるっていう。
それで、オーケストラピットってあるじゃないですか、下からせりが上がってくる。
それが落ちちゃったことがある(笑)
例えば長崎のですね公会堂は、それで落ちたために初めて修復したっていう、そういう伝説もあるんですよ。
おれが落としたから、あそこは修復したんだぞ、みたいなね。
A:そういう意味じゃほんとに浜田さんは今のいわゆるツアースタイルという、日本のミュージシャンがコンサートツアーするというとこをこのあたりで切り拓いてきたわけなんですね。
H:そうですね。
僕だけじゃなくて当時だと例えば、矢沢永吉さんであるとか、オフコース、アリス、谷村新司さんのいるアリス、あとはまぁ僕とか、そういった人たちですね、たくさんコンサートをやってたのは。
A:その集大成として武道館、があるわけなんですが。けっこう武道館を決めた時は勢いみたいな形で決めたんですよね。
H:これはねぇ、あの勢いじゃなくて、広島に夢番地っていうコンサートプロモーターがあって、その初代の会社を興した社長がね善木さん、今は会長になってますけど、
彼が、彼の頭の中で考えたことなんですよ。
彼がずうっと僕のコンサートを見てて、まだお客さんが500人、600人の時に、何でこれがブレイクしないんだ?と。
これ絶対に見せたらね、絶対みんないいっとわかってくれるはずだと。
特に東京のメディア、の人たちに見せたら伝わるはずだと。
彼がある日酔っ払って話したんですよ。最初は酔って話してるのかなぁ・・・と。
当時武道館っていうのは、ねぇ(笑)
例えばー、そうですねぇ、えー、メルパルクホールでやってる、やっといっぱいになったアーティストがいきなり東京ドームでやる感じなんですよね、
武道館でやるっていうのは。
だからちょっと考えられないスケールだったんですよ。
今はねぇインディーズでデビューした人たちも武道館をやる時代になりましたけど。
だから僕たちも例えばラジオ局のディレクターが
「浜田君、僕が見た武道館の一番少ない客はねぇ、前から4列しか客が入ってない外タレがいたなぁ」とか、そんな話をするんですよ。
A:基本的には外タレがやる場所ですよね。
H:そうなんですよ。
A:当時の武道館って。
H:はい。でもまぁ僕たちはせいぜいアリーナがいっぱいになって、3000人ぐらいだけでも頑張ろう、っていうぐらいの気持ちだったんですよね。
そんな時代ですね。
A:それを、武道館をやろうと決断して、武道館は1982年の1月12日に行われるわけなんですが、もう決断したのが1年前とか2年ぐらい前のことになるんですよね。
H:そうですね。ちょうど1年半ぐらい前ですね。
はい。そうです。
A:だからその当時としては、ある意味じゃあ無謀なチャレンジ。
H:そうですね。だからあるひとつの、武道館1月12日に向かって、みんなでそれをやろう。その前の年はすごい数のライブをやってますし、アルバムもそれに向かって優れたアルバムを作らなきゃいけないっていうプレッシャーもすごくあって、それでできたアルバムが「愛の世代の前に」って いうアルバムなんですけどね。
だからちょうど80年の「HOME BOUND」から「愛の世代の前に」その次の年の「Promised Land」ぐらいまでは、
ツアーをやりながら曲を書いて、ツアーをやりながらレコーディングして、同時に全部のことをやってましたね。
ひとつのツアーが終わったら、もうすぐ次のツアーのためのリハーサルが始まってっていう。
その間にわずかね、10日か1週間ぐらい休みがあって、その休みだけが唯一の楽しみだったんですよね(笑)
A:考えられないぐらい隙間のないスケジュールで。
H:スタッフなんかねぇ、東京に下宿とかあるじゃないですか。
アパート借りてる子たちは、みんな引き払いましたからね。
家賃払ってても意味がないから。帰れないから。
ミュージシャンはまだ帰れるんですよね。月に1回か2回か3回か。
でもスタッフは3ヶ月ぐらい帰れないんですよ、出ちゃうと。
だからねぇ、ほんとに遠洋漁業の漁師さんみたいな感じになって。
A:出たっきりなんですね。
H:出たっきりです。3ヶ月帰らない。帰ったら子供が覚えてないとかね。
「パパまたきてね」とかね「おじさんまた来てね」とか言われちゃう。
よく冗談で言うじゃないですか。その、そういう状態になって、
独身のスタッフなんてのはもうアパートをひき払って、荷物をトラックに積んじゃって。そういう笑い話がありますね。
A:そういう人たちの、少し家庭を犠牲にして(笑)、浜田省吾伝説がここから生まれてくるっていう。
H:そうです。ただ、当時はまだね、今も一緒にやってるスタッフがいますけど、まだほとんど独身で、みんな若かったんですよ。
20代そこそこで。
A:いろんな意味で、夢とか希望とかすべて、無茶を重ねて、
このあたり。
H:そうですね。そうそう。それがさっきのラジオの、氷嚢を頭に乗っけてみたいな感じなんですよね。
A:その無茶が、日本武道館で、ひとつ結実する。
H:そうです。
A:・・・わけなんですね。
H:はい。
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