1月1日(木)付秋田魁新報4面新春座談会『秋田を拓く』。

 紙上企画『月曜論壇』に登場する4人の執筆者と論説委員長による2面

に渡る記事である。

 冒頭部テーマ『県民性』から開始される。

 東京商工リサーチ顧問荒谷氏は、

 「受け継いできたDNA(環境・文化が人の心象形成にもたらすものとして

の意 : ブログ筆者注)はそう簡単には改まらない」

とする。

 また氏は、「享楽主義的」、「新しいもの、大きいものが好き」、「きっぷが

よい」、「宵越しの銭は持たないみたいな面」を県民性に挙げる。

 また工藤氏(昭和大学医学部教授)は、

 「ラテン系に通じるものがある」

とし、佐々木氏(地域文化文化研究会AKITA主宰)は、

 「(享楽的に加え : ブログ筆者注)長続きしない・・・花火みたい・・・」

とする。

 蒔田氏(県立大教授)は、

 「ラテン系のリズムがよく似合う。享楽的な半面、おっとりしていて自分の

ことを表に出したくないという点では、京都人と似ている」

とし、さらに地域としての秋田を工藤氏は、

 「自由で芸術性豊かな縄文文化を色濃く残している地域だとみてもいい

のではないか」

と加えている。

 上に挙げたもののうち、“新しいもの、大きいもの好き”は一般的傾向で

ある。

 そして“きっぷがよい”は様々な県の特徴として挙げられていると記憶し

ているし、“宵越しの銭は持たない”は江戸っ子の代名詞である。

 また、“おっとりしてあまり自分を表に出さない”について言えば、“おっ

とり”と“自分を出さない”が組み合わされると京都人になる、という氏の見

立てかもしれないが、“自分を出さない(もしかしたら愛想が悪く、というこ

とが組み合わされる?)”というのは、いわゆる東北人をさす際に用いられ

る一方、“長続きしない”は、一般的に東北人について語られる“忍耐強い”

に反している。

 そして“ラテン系”は大阪人的であると言えるかもしれない。

 つまりどういうことかというと、どこの人にも当てはまり得ることと、いわゆ

る東北人的なこととそれに反すること、そして江戸っ子的であったり、大阪

人的であったり、京都人的でもある、ということが混在しているのである。

 また、“享楽的”とする意見も多く、それなりの各氏の経験による裏打ちが

あるのであろうが、これは私にはよく判らない部分である。しかしいずれに

せよ、県民性とはその集約性を持ち得ないトピックであるということが言えよ

う。“そうしたいくつかの面を持つのが秋田県人である”ということにこそ集

約することはあっても、秋田県人が常に同時にそれを具現化しているとは

到底言えなし、秋田県人各人が常に同時にそれを具現化しているわけで

はないのである。これはいたって当然のことである。“いろいろ”なのであ

るから。

 このことは、“県民性”の議論が“居酒屋談義”、“井戸端談義”の枠を超

えないということである。ネタとしては面白くてしょうがないが、そこで完結を

見る。

 また、“日本人は、外国人が日本人や日本をどう見ているのか、というこ

とについて非常に高い関心を示す”とも一般に言われるが、それはどこの

国の人も祖国について話をしたがるということと相まって、結局は世界中の

国の人についても言えることなのである。

 “居酒屋県民性談”は結局、全国学力テスト平均正答率談義と何ら変わ

るものではない。

 ある種の分析が可能であるとはいうものの、それ以上前には進まない。

確かに平均すれば“全国2年連続トップ級”・・・いよっ、出ました名調子!

・・・なのではあるが、子どもの成績は“いろいろ”なのである。強引に言えば、

似たような偏差を持つどこかの県に較べて、秋田の子どもがみんなほんの

少しずつだけ好成績という処理が可能な答え方をしたということなのである。

 今回座談会の他のテーマも含め、各執筆者のコラムは楽しく拝見してい

る。

 しかし“県民性”を語るのであれば、その意義は“ただその場(読者がそ

れを目にする時、を含む)が楽しい”という一語に尽きる。それ以上の話で

はない。

 また当該座談会における県民性談義には、俄かには信じ難い部分があ

る。「どうせ秋になればコメ代金が入ってくるんだ」とか「冷害がなくコメが

毎年取れて・・・」という説が散見されることだ。長い歴史の中において、全

国的にも稲作は決して楽な環境ではなかったはずである。今の青森・岩手・

宮城に較べれば、秋田の冷害の影響は少なかったかもしれない。しかし山

間部を除けば、東北以南・以西の方が秋田よりもむしろ稲作の環境は良か

ったのではないか。

 県民性と産業振興を直に結び付けるのはいささか強引なのではないか。

 どの地域に暮らす人々も、基本的には裕福にはほど遠かかったと考えら

れる。仮に今で言う秋田県地域に、現在トップ級の工業あるいは商業(国内

あるいは貿易)の大きな会社があれば、他県の人と較べても遜色なく秋田

県人は活躍していたはずである。大雑把に言って、人口密度や他社との連

携といういわゆる市場が地元や近接する地域に無かった(秋田ローカルの

市場はもちろんある)ことの方が今に与えた影響が大きいと思われる。人

口の少なさ(人口密度の低さ)は決定的に市場の形成の逆風となる。佐竹

の殿様は全然有力大名でもなかったのに、その支配地の面積はやたらと

デカイ。秋田が米どころと言っても、もともと平地が広かったのだ。江戸時

代なんかは、本州では大名領地が細切れになっていた所もあった。米作り

にジャストフィットした土地柄であったということでは決してない。稲作をする

上で天候的には秋田よりも恵まれた地域はいくらでもある。しかし大きな市

場が近くにあった地域での工業化の進展によるインパクトは非常に強く、そ

れは市場自体の拡大をもたらした。秋田は必然的に稲作でやっていこうとし

たわけだが、何度も言うとおり、大きな商工業があればとっととそっちにシフ

トしていたはずである。

 地方紙が住民を元気付けようと“県民性”を持ち出すのは解る。それ自体

が愉快な話題であり、誇りを再認識する効果も見込める。しかし、やり過ぎ

はむしろ毒である。昨年、この手の話で何度も登場したのは“足引っ張り”

であった。さすがにそれが“手引っ張り(引き上げる、押し上げる、という動

きが見られてきたとする)”なるものに移行してきているが、しかしさんざん、

“見栄っ張り”で“足引っ張り”だと言わせ続けたのは誤りであったはずであ

る。どういう構図であったかと言えば、秋田の経済の低迷は県民性に由来

するとも受け取られかねないものだったのだ。

 “県民性”に続く座談会テーマ「手引っ張り」においては、荒谷氏は、

 「政治的、経済的、さらには文化的リーダーが自ら変わらないといけな

い」

とする。自ら変わることに期待することも難儀な相談だが、

 「制度とか条例とか環境を変えないと、県民性や地域性はなかなか変わ

らない」

と続けている。後半は下らない議論だが、前半部は、変わり難いにもかか

わらず“自ら変わらないといけない”と述べていたことを、見事に自分で修

正していている。前半部を実現するには、まともな人選をすることと、人選

が不可能な分野の人には言論やリアクションによってプレッシャーを与え

るしかないのだろう。

 蒔田氏は、

 「・・・とにかく変わればよいという風潮はおかしい」

と言う。何のことか解らない。

 「・・・右肩上がりの時代と同じ感覚で変わろうとしても・・・」

と述べるが何のことか解らない。変わろうとしたんだっけ?

 よく解らないから、これに続く、

 「変えてはいけないところがあるはずで・・・」

という部分も解らないままだ。

 荒谷氏は、

 「秋田では大きな夢や野心を抱く経営者が多い。でもそれを実現するた

めの努力や能力が不足している」

と述べる。“やる能力”もないし“やってることも足りない”では、読者として

は笑うしかない。

 何度も言うが、執筆陣の話自体は総じて面白い。しかし、“県民性”はも

ういいだろう。