嶺亜に水泳指導をしてもらえる…という期待を胸に練習に挑んだ克樹だったが、期待のそれとは少し違っていた。
「えっと…平泳ぎのコツは…」
何故か克樹の隣には谷村がいて手取り足取り教えてくれようとしている。違う、相手が違う…と克樹は口惜しさを噛みしめてプールサイドを見た。
「克樹、谷村の言う通り泳いでみて。ちゃんとやらないと上田先生に僕たちまで叱られちゃうからね」
谷村はプールに自ら入ってコーチするのに嶺亜は服を着たままプールサイドでメガホンを持ってゆるい指導のみというスタイルだった。何もかもが期待外れだ。
「いちいち着替えるの面倒だしこの後も仕事しなきゃいけないから。僕が指導した内容を谷村がプールの中で教えてくれたら効率いいでしょ?」
「そう…ですね…」
「克樹は体脂肪率高めだから浮きやすいし水泳向きだよ。頑張って優勝してね」
「ハイ…」
貶されてるのか期待されてるのか分からないまま克樹は谷村の指導で平泳ぎの練習に勤しむ。しかし、受験勉強の時間を削ってまでこれに参加するのは他でもない練習後の癒やしタイムのためだ。
「最初より5秒も縮んでるじゃん克樹、やっぱり水泳向きかも。ハイこれご褒美」
にっこり笑って塩せんべいを手渡され、克樹はタオルで顔を拭きながら有難くそれを受け取る。水泳部員と女子マネージャーのようでなんだかこういうのも悪くない。
「おい顔ニヤけてんぞジュゴン。俺にも塩せんべいくれよ」
大光が手を出してくる。彼はジャンケンに負けて水泳になった。だが普段から水を被ったりして濡れることには慣れてるし適役だろうというクラスメイトのお墨付きだ。
「僕も学生時代は3年間水泳に出たよ。1年の時はうちのクラス水泳種目一位だったし。懐かしいなー」
嶺亜の水泳水着姿を想像しかけて大光に顔を覗かれ、克樹は慌ててそれを払拭した。
「谷村先生もここの出身でしょ?先生も水泳種目で活躍?」
練習の様子を見に来た琳寧に訊ねられて、谷村は「いや…」と首を振る。
「一年の時は食当たりで休んでて、二年の時は走り幅跳びに出たけど着地失敗で捻挫して三年の時は熱中症で倒れてまともに参加したことがなくって…」
凄まじい間の悪さだ。その話を聞いて嶺亜も爆笑している。
「谷村昔っからそうだったもんね。こないだの新人研修も電車乗り間違えて遅刻して怒られてたっけ」
「でも、嶺亜くんも遅刻…」
「そう。僕は15分遅刻だけど谷村が1時間遅刻したおかげで霞んでラッキーだったな」
克樹は少し羨ましくなる。谷村は克樹の知らない嶺亜を色々知っているし逆もまた然りだ。
将を射んとせばまずなんとやら…克樹は谷村に少し頼ってみることにした。更衣室で二人きりになったこともあり、なんとなくを装ってそれとなく探りを入れてみた。
「忙しいのに僕たちのためにすみません、先生」
「いや…上田先生からの頼みだし、断れないし…怖くて」
「ですよね。嶺亜先生にも申し訳ないです。あの、先生達は高校の同級生だったんですよね?その頃から仲が良かったんですか?」
こと嶺亜に関してはかなり神経質なものの見方をしている克樹ですらも、谷村と嶺亜は仲が良さそうに見えなかったがこの際情報を引き出すためにそう質問してみた。予想通り、谷村は苦笑いをして首を横に振る。
「俺と嶺亜くんは在学中もそんな仲良くなかったよ…。俺のルームメイトとは凄く仲が良かったけど…」
谷村はそこで言葉を切る、意外にもすぐに克樹が気になっていた情報に辿り着いた。
「でもその友達は、在学中にバイク事故で亡くなってしまったから…嶺亜くんはそこからあんまり誰とも深く仲良くなってなかったように思う」
「その人…どんな人だったんですか?僕、夏休みに偶然嶺亜先生に会って…そしたら友達のお墓参りに行ってたって嶺亜先生が言ってたからちょっと気になって」
あの時の嶺亜の瞳を思い出す。深い悲しみに彩られた、昏い闇の色を…
「嶺亜先生が凄く仲が良かったなら、きっと素敵ないい人だったんでしょうね」
「いや…」
谷村はそこで首を捻る。そしてこう続けた。
「お世辞にもいい人とは言い難かったかな…騒がしくて問題行動ばかり起こして…でも底抜けに明るくて…見た目は全然違うけどそう、佐々木とちょっと似た感じ」
大光に…?と想像しかけて上手くいかず、嶺亜の親友のイメージはそこで消えてしまう。どんな風に仲が良かったとか亡くなった時はどんな感じで過ごしていたのかとか色々気になっていたことが聞けずに終わってしまった。
着替えて更衣室の鍵を職員室に返しに行こうとして、克樹は偶然にそれが目につく。
「これ…」
廊下に飾られたマリアの肖像画だった。普段こんなもの目に留めることはないが、なんとなく視界にそれが映る。
肖像画の隅に小さく自筆してある文字…「第77回生 中村嶺亜 画『マリア像』」とあった。
「嶺亜先生が高校生の時に描いたマリア像…」
克樹が不思議に思ったのは、マリアが抱いた嬰児のイエス…それが嶺亜に似ている気がした。そして、マリアは…
微笑みながら嬰児を抱くその微笑みは、慈しみというよりは弾けるような陽気さに満ちていて、若干コミカルな感じもした。聖母なのだから清純で慈愛に満ちたマリアが多く描かれているのだろうが、この肖像画のマリアはなんだかおてんば少女のような印象を受ける。
誰かモデルがいたのだろうか…
そんなことを考えていると、後ろから声をかけられる。
嶺亜だった。
「何ボーっとしてるの…って言いたいとこだけど、僕の絵がどうかした?」
「あ、いえ…」
不意の嶺亜の登場に、動揺が先立ち言葉を詰まらせていると、嶺亜は自分の描いたマリアの肖像画を見据えた。
「懐かしいな…これ、高三の時に描いたんだよね」
高校生の嶺亜が、今の自分と同じ制服を着てこれを描いている姿を想像して克樹は不思議な感慨に浸る。きっと、同じ年に生まれていたら自分は美術室でこの絵を描く嶺亜を遠くから見つめていただろう。
「あの、この赤ちゃんのイエスが先生に似てる気がして…」
ようやく出てきた感想に、嶺亜はクスっと笑った。
「よく分かったね。眠ってるところだし、誰も分かる人いなかったけど変なとこ賢くて鋭いんだね、克樹って」
誰よりも嶺亜を見つめてきたから、克樹にはすぐに分かった。だがそんなことは口にはできない。
「最初はマリアの隣にヨセフか別の人物を描こうとしたんだけど、失敗して描き直したんだ。卒業する直前に描き上げて…その時の顧問の先生がここに飾ってくれたんだよ」
「このマリアは…誰かモデルがいたんですか?」
何故か、聞きたかったことがすらっと今口から出てきた。きっと、自分の気持ちを口にするよりは簡単だったからだろう。
嶺亜の眼がほんの少し細まった…気がした。
「友達だよ。夏休みに会った時言ったかもしれないけど…バイク事故で亡くなった子」
不思議と、克樹にはその答えは予想できていた。だから驚かないしリアクションも出てこない。
「いつも笑って可愛い顔してて、まるで女の子みたいだった。性格は見た目とは正反対でがさつで破天荒で問題ばっかり起こして先生達にも睨まれてて…でも底抜けに明るくて優しかった。僕はね…」
そこで嶺亜は一旦言葉を切る。そして真っ直ぐに克樹を見据えて言った。
「その子のことが大好きだったの。僕にとってマリアのような存在だった。だから忘れないためにこの絵を描いたんだよ」