車の往来を気にしながら、嶺亜は早足で道路を横断し、岸の方へ歩んでくる。岸は自分の鼓動がどくん、と脈打ったのを自覚した。

会いたかった…が、会わずに去りたかったという相反する感情が螺旋階段のように交錯する。感情を示すメーターは今、左右に大きく振り切っていた。

「嶺亜…」

バス停の側に立つ街灯の頼りない灯りの下で浮かぶ嶺亜の表情は全くと言って良いくらいに感情が宿っていなかった。岸はそれを複雑な気持ちで見る。

「嶺亜、あのさ…」

声をかけようとする岸の言葉を遮って、嶺亜は元来た道を振り返りながらこう言った。

「栗ちゃんのお墓参りに行ってきた」

「…」

まるで独り言のような口調に、岸は反応に迷う。嶺亜はかまわずに続けた。

「そこで色んなこと話したの。栗ちゃんがいなくなってから起こったこと。…当たり前だけど墓石からは何の反応も返ってこなくて、そこでやっと僕は栗ちゃんがもういないんだってこと、本当の意味で受け入れられた」

「嶺亜…」

「あの時、僕に言ったこと覚えてる?」

そこで初めて嶺亜は岸の目を見た。さっきまでの感情の宿らない瞳ではなく、はっきりとした何らかの感情を宿した瞳で。

そこには、わずかながらに救いを求めるような色が浮かんでいた。

だから岸は答えた。

「覚えてるよ」

忘れるはずもない、岸はあの時自分が嶺亜に言ったことをそのままもう一度復唱した。

「絶対にまた出会えるよ。大切だと思える相手に」

「うん」

嶺亜は満足そうにすぐに頷く。しかしすぐに彼はその瞳に憂いを見えた。

「けどまた、それは僕の前から去って行くんだよね」

ああ、知っているんだ…と岸は確信する。今から自分が去ることに。何がどうなって、こういうことになったかまでは知らないだろうが、岸がもう教師として学校にいられないことを彼は悟っている。

胸が少し痛んだ。

もしかしたら、自分が取った行動は間違いだったかもしれない。もっと違う選択肢もあったのかもしれない。どうにかして上手くやれば、何事もなかったかのように学校にいて、嶺亜の側で笑って…

けれどそれは、仮定しても意味がない。今ここにある現実はバスが来れば自分はそこに乗り込んで、嶺亜の前から去って行く。そこに彼が矛盾を感じているのかもしれないという後ろめたい思いを引きずって…

「嶺亜、俺は…」

「分かってるよ。岸が選んだ選択は正しいと思う」

「…」

「僕と岸とのことが周りにバレて大ごとになったら、僕も岸も学校にはいられない。だから岸は自分だけ去ろうとしたんでしょ?岸らしい選択だなって僕は思った。だから責めないよ」

嶺亜は足下に落ちていた小石を拾って、それを指先でいじりながらそう言った。それは半分本音で、半分は嘘だと岸は思った。いつだって嶺亜は何を考えているか良く分からない、本心を隠したものの言い方をする。それも良く分かっていた。

「嶺亜、俺は嶺亜に会えて良かったよ」

だから岸は一番素直な気持ちだけを嶺亜に伝えた。

「恥ずかしながら…今までこんな気持ちを誰かに抱いたことなくて…神宮寺に『岸くん人を好きになったことないんじゃねーの』なんてからかわれるくらいだし…そんな俺に、ちゃんと人を好きになることができるってこと教えてくれて…まあどっちが教師だか分かりゃしないけど、俺は嶺亜に色んなこと教えてもらって感謝してる。こんなことになったのは残念だけど…」

遠くから車のエンジン音が近付いてくる。もしかしたらバスが来たのかもしれない。岸はしかしかまわず続けた。

「でもいつかまた、どこかで会えるよな?」

そう問いかけると、嶺亜の眼がほんの一瞬見開かれた。それを岸は見逃さなかった。

「さあ…そんなこと、僕にも誰にも分かんないよ」

嶺亜は背を向ける。そうしてゆっくりとバス亭から坂に向かって歩を進めようとした。

バスが近付いてくる。運転手が岸を見て、速度が落ちる。

「絶対会える!少なくとも俺はそう思ってる。ちょっと自分探しの旅に出て、落ち着いたら…そん時また連絡してもいいかな?少しは成長した姿を見せに…」

バスが岸の横で止まり、ドアがプシューと音を立てて開く。その時にはもう嶺亜は岸から数メートル遠ざかっていた。

「嶺亜!」

「早く乗れよ!そのバス逃したら次は一時間後だから!」

背を向けたまま、声を荒げて嶺亜は叫んだ。その声は少し震えていた。

「うん…じゃあね」

岸がバスのステップに足をかけた時、アイドリングの音に混じって確かにこう聞こえた。

「ありがとう」

その直後、鼻をすする音がわずかに耳を撫でる。

岸はその言葉を聞いて、何故か十字を切っていた。

そしてありったけの声で答える。

「またな!元気でな!」

バスはゆっくりと発車する。岸は後部座席に座り、嶺亜の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。最後にその姿が点ほどの大きさになりかけた時、嶺亜が振り向いた…気がした。

さようなら、僕のマリア

いつかまた、どこかで会う日まで祈り続けよう

君が大切な誰かに出会えますように

 

 

Sancta Maria, Mater Dei, ora pro nobis peccatoribus nunc et in hora mortis nostrae, Amen

(神の母、聖マリア、わたしたち罪人のために、今も臨終のときも祈ってください)