岸は即日退職を申し出たが、そういうわけにもいかず、業務の引き継ぎや整理などやるべきことは予想以上に沢山あり、結局は年内いっぱいということになってしまった。

問題のSDカードについては他には出回っていないらしく、学校内に噂が流れることもましてやマスコミが駆け付けるなんてこともなかった。秘密裏に処理されたようだったが結局誰が送りつけたのかは分からずじまいだった。

岸の退職については、まず職員内だけで業務連絡のメールで事務的に報告されたが、挙武の告発もあり薄々職員の間では退職の原因については認知されているようだった。気まずい雰囲気に耐えなくてはならないが、岸本人は自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。淡々と業務をこなしながら事務的な会話を交わす毎日が過ぎてゆく。

生徒たちが岸の退職を知るのは2学期の終業式と予定されている。そこでは「一身上の都合」と事務的に報告されるらしいが、その日は出勤せずに有給を取るよう言われた。万が一にも騒がれるわけにはいかないからだ。

退職することを、なんとなく岸は神宮寺と玄樹にも言えずにいた。後で知ったら怒るかなあ…と考えつつも二人は期末テストで忙しそうだし、岸も退職までの間は恐らく意図的に生徒と接触することのないよう業務を調整されていたから嶺亜はもちろんのこと3-1の誰ともまともに接していないまま、終業式の前日まで来た。

「…」

荷物をまとめ終わり、職員室を後にする前に岸はその場にいる職員に一礼する。

沈黙が流れる。気付かないフリをしてパソコンを打ち続ける者、一瞥する者、何か言いたげな視線を向けてくる者…それらを岸は複雑な感情で受ける。

「岸先生」

背中を向けようとすると、呼び止められる。それは教頭の声だった。

職員室の奥の、教頭用のデスクから彼は岸に視線を向けている。この距離ではその感情を読み取ることが出来ない。

「…次の職場でも、君らしく頑張ってください」

事務的な言葉だったが、語尾が少し震えていたことで、岸は教頭の心情を少し読み取ることが出来た。それは、願望がそう聞こえさせたと言われればそれまでだが、岸にはその言葉はエールのように聞こえた。

「ありがとうございました」

最後にもう一礼して、岸は職員室を出た。

校舎を出たところで何気なく見上げた空は紫紺で満たされていて、大きな光を放つ星々だけが点々と輝いている。吹く風は冷たく、真冬が迫ってきていることを感じさせる。岸はコートの襟を立てた。

「…」

今の岸には、吹く風が少し染みた。わずか数ヶ月の教師生活。得たものもあれば、失ったものも…

一度だけ岸は立ち止まる。誰にも何も言わずに去って行くことに、少し罪悪感を抱いていた。

自惚れる訳ではないが、自分を慕ってくれている生徒もいた。幼馴染みの神宮寺と玄樹もそうだし、それに…

嶺亜にも何も告げずにここを去るのは、また彼が傷つくのではないかとも思える。

だが岸はあの日以来、嶺亜と接することはなくここまで来た。きっと嶺亜は心の整理がついていないだろうし、求められていないのならそれ以上踏み込むことは出来なかった。岸自身、どうしていいのか分からないというのが正直な気持ちだ。

だから少し時間が経てばお互い向き合って話せるかもしれない。今は黙って去ることが精一杯だった。そう結論付けて岸は再び歩み出す。

「…?」

校門を出て数歩歩いたところで、ふと気配を感じて岸は立ち止まり、振り返る。

「…颯…挙武…?」

そこには表情を殺した挙武と、その少し後ろに俯いた颯がいた。

なんだか酷く懐かしく感じる。岸はこみあげる思いを抑えながら二人に問いかけた。

「どしたの?二人とも。もう下校時刻はとっくに過ぎて…」

「辞めるというのは本当か?」

岸の言葉を遮りながら、挙武の探るような声が響く。ごまかしや嘘は無意味に思えて、岸は頷いた。

「俺のせい…だな…」

挙武の声は少し沈んでいた。だが岸は挙武のせいだとは思わない。なんとなくだが、遅かれ早かれ自分はこの学校を後にする…そんな気がしていたのだ。嶺亜と一線を越えたあの日から。

「あのSDは挙武が?」

岸は気になっていたことだけを問う。例え彼だったとしても責めるつもりも恨むつもりもない。ただ純粋な疑問だ。

しかし挙武はきょとん、とした表情を見せた。

SD…?」

ああ、違うのだなと岸は確信する。だから首を横に振った。

「挙武のせいなんかじゃない。これは俺が自分で決断したことだよ」

「だけど、なんで…」

何か言おうとする挙武の前に、いきなり颯が飛び出す。その顔は今にも泣き出しそうで、唇が震えているのが薄闇でも分かった。

「岸先生、俺は…」

「颯、ごめんな」

岸は颯の顔を真っ直ぐに見据えた。

「生誕劇で、辛い思いさせちゃって。多分、俺が颯のこと傷つけちゃったような気がするんだ。だからお前は舞台の上であんなになっちゃったのかもしれない。本当にごめん。でも、颯と一緒に生誕劇の練習が出来て俺は楽しかったよ。俺なんかよりずっと凄いガブリエル出来て…俺ももっと頑張らないとって思ったし」

言いながら、岸は颯の目から次々に涙が零れるのを認識する。この涙はどういう感情によるものなのか、今の岸には全て理解することは出来ない。それが少しもどかしくもあった。

「岸先生…俺…俺は先生のことが好きでした」

涙まじりに、ほとんど聞き取ることができない発音で、確かに颯はそう言った。後ろの挙武はそれを複雑そうな目で見ている。

「俺…いつか、先生に認めてもらえるような人間に成長できたら…必ずまた先生に会いに行きます。その時まで、俺のこと…忘れないでいてくれますか?」

岸はなんとなく思う。颯とはまたどこかで再会するかもしれない、と。それも、今の自分が想いも寄らないところで…

そんな気がしたから、岸は頷き、颯に手を差しだした。

「忘れるわけないだろ。颯の方こそ、そんなこと言って俺のこと忘れたなんて言うなよ?待ってるから」

その手を握り、握手を交わして岸は校門を後にした。