挙武が礼拝で放った告発は、普段からふざけることの多い彼の悪質なイタズラとして流されるという当人の見解とは裏腹に、それは思ってもいない方向に向かいだした。

岸はその日の放課後、校長室に呼ばれた。

「失礼します」

ドアをノックし、返事を待たずに中に入ると沈痛な面持ちの教頭と、その横で校長室のデスクの椅子に座る表情の読めない校長がいた。

校長室に入るのは二度目だった。赴任式の前日に辞令をもらった時以来だ。

高価そうな漆塗りの机に革張りのソファ。そして壁面には歴代校長の写真が並べられている。いかにも、といった部屋だった。

岸は無言で教頭らの前まで歩む。わずか数歩だったが、酷く遠くに感じた。

「岸先生」

まず、校長がそう呼びかける。正確な年は知らないが、白髪混じりの教頭よりもかなり高齢に見える。毛髪は真っ白で、眼窩が垂れているせいでその眼が何を捉えているのかも分からなかった。恐らく80は過ぎているだろう。

「ここに呼ばれた理由が分かるかね?」

口調は穏やかだったが、そこに含まれる有無を言わさぬ厳格さに岸は握った手に汗が滲むのを感じた。

すぐには答えられなかった。だが、岸が答える前に教頭が重い口調で代弁する。

「今朝、礼拝で君が生徒と良からぬ行為に及んだと告発した生徒がいたと聞いたんだが…」

心なしか、いつも毅然とした教頭に戸惑いが見えた。岸は状況を忘れて教頭のそんな様子を不思議に思った。ちょっとやそっとのことでは動揺しそうにない教頭が何故こんな風になっているのかが。

「我々は、生徒の悪ふざけだと解釈した。その生徒…羽生田君は私の古い友人の息子だが…奔放な性格で父親も少し頭が痛いと言っていたからいつもの癖みたいなものだと思っていた」

校長の声には全く抑揚がなかった。まるで独り言のような響きに、岸は少し不気味に感じる。

「…」

岸が黙って聞いていると、教頭がデスクの上にあった小さな部品のようなものを手に取った。

それは一枚のSDカードだった。

「昼休みに、これが校長室のドアに貼られていた。中身を確認しろと」

校長が言った。彼はデスクの上にあったパソコンを指差し、

「何のイタズラかと思って開いてみたら、君とその生徒が映っていた。我々には俄には信じがたいものがそこに映し出されていたんだ」

岸はこの時点でようやく気が付いた。背筋にサーッと戦慄が走る。

誰かに撮られていた。あの時の嶺亜との美術準備室の行為を。

一体誰が…挙武本人が?それとも偶然あそこを通った誰かがいたのか…岸が額の横に流れる汗を遠くに認識していると、校長はじっと岸を睨んだ…気がした。

「こういったものが出回ると、我々も羽生田君の言ったことが冗談やからかいでなかったことを認めざるを得ない」

「…」

「それ以上に、事件になりかねない。教師が未成年である生徒と淫行に及んだとあっては世間が許すまい。たとえ合意の上であっても」

校長はゆっくりと立ち上がる。

「私の言いたいことが分かるか?」

岸は頷いた。これは、過ちの代償のほんの一部だ。それを承知していたから、答えはすぐにすぐに自分の口から出た。

「僕は本日限りで、教師を辞めます」

沈黙が数秒流れる。張り詰めた空気を最初に破ったのは教頭だった。

「残念だ。君はいい教師になれると私は思っていた」

震えるその声に、岸は教頭が自分を信頼してくれていたことを今ここで知った。その戸惑いは、信頼をまだ捨て切れていなかったことの表れだったのだろう。彼は自分に否定してほしかったのかもしれない。

「すみません」

頭を下げながら、その信頼を裏切ってしまった自分の不甲斐なさを悔いた。だが…

「でも僕は、後悔はしていません」

岸はそう口にしていた。それは紛れもない本心だ。

こうなることが分かっていようとも、あの時の自分の感情までも否定することは出来ない。

確かに嶺亜に対する感情が存在した。それはこうなった今でも変わりはない。

たとえそれが、赦されざる過ちだったとしても。

校長は事務的に退職の手続きの説明をし、その書類を抱えながら岸は校長室を後にするべく踵を返す。

ドアノブに手をかけたところで、教頭の声が響いた。

「私の思い違いであったなら否定してくれ。君は、彼を…中村君を救おうとして、あんなことをしたのではないのか?」

岸は振り向く。そうであってくれ、と教頭の眼は訴えていた。

だが岸は首を横に振った。

「違います。僕は…」

岸は書類を握りしめながら答えた。

「僕はただ、自分の感情を抑えきれなかった…それだけです。教師失格です」