感情→伝える
“言葉を知れば
表現が奥深くなる。
伝えたいことを
伝えられる様になる。”
中学の頃、国語の先生が
よくおっしゃっていました。
実際にそうだと思います。
言葉を知れば知るほど、
感情の機微を限りなく正確に
伝えることができるでしょう。
例えば「悲しみ」を表現する場合。
「憂愁に閉ざされる」と聞けば、
憂いや不安、心配を含んだ悲しさで
塞ぎ込んでしまう様。
もしくは物思いに耽って
ため息をつくような様。
すなわち、
“これから一体
どう生きていけばいいのだろうか…”
といった様な失望した感情を表現するし、
「悲嘆する」と聞けば、
自分にとって大切な人物を亡くした時などの
深い悲しみや寂しさ、絶望感などを
表現する。
「空を仰ぐ」と聞くと、
目頭が熱くなって、涙がこぼれてくるのを
人に気取られないようにと
堪えている様が想起される。
といった様に、
語彙の引き出しがあればあるほど、
感情が一体どういった様子なのか
描写をしやすくなるし、
それが故に、
感情を臨場感を持って
表現することが出来るのだと思います。
だけど、どれだけ語彙力を持っていたとしても、
本当の気持ちを伝えるってなかなか難しい。
理論的に考えるのであれば、
表現力があればあるほど
感情を言語化するのは容易いのでしょう。
しかし、実際はどうでしょうか。
どれだけ語彙の引き出しがあったとしても、
感情を自分以外の誰か
ー殊、恋愛において意中の相手
となると
とたんに声を介して感情を発することが
憚られる様な感覚に陥る。
”叡智、意志、言葉”
これらを司るのが奇術師。
叡智も言葉もある種無機質。
“である”と定義されたものが、
その多くであるからです。
しかし“意志”は違う。
“自分自身の”意志もあれば
“自分以外の他者”の意志もあるため、
必ずしも統一された概念ではない
ということは当然ながら、
一方通行であっては意味をなさない部分が
流動的な主観的概念であり、
疎通や共有というところが
難しいところなのでだと思います。
要するに
小難しく書いてしまいましたが、
簡潔に表現するならば
「好き」ってなんで言えないの?
「寂しいから会いたい」って言葉は
なんで喉につっかえて文字にならないの?
って話です。
本当、不思議ですよね。
友だち同士で恋バナしてる時は、
彼氏/彼女への気持ちを
ポジティヴだろうがネガティヴだろうが
言語化出来るのに、
いざ大好きなあの人を目の前にすると
途端に声にならなくなる。
なんで言えないんでしょうか。
1番の要因は「嫌われたくない」
という感情がブレーキを踏むから
なのではないか、と
個人的には仮説を立てています。
セフィロトの樹において
第7のセフィラ:ネツァクが
感情・アートを司る一方で、
その対角にある
第8のセフィラ:ホドが
科学・言語を司る様に
感情と言語は小径を介して
繋がるとは言えど、元は別の領域。
ホドがネツァクの「伝えたい」を感じないと、
それが「言語化(=ホド)」に伝達されません。
「伝えたい/伝えたくない」の動機は
“愛”
何故ならネツァクは金星対応であり、
金星は愛と美を司る天体
であるからであるためです。
愛するが故に「愛されたい」と思うし、
愛するが故に「嫌われたくない」と思う。
だから「伝えること」を吟味する。
「伝えること」に慎重になる。
その結果時として飲み込むし、
時として自分の中に封をして
閉じ込めるんですよね。
言葉って日常の中に溢れているし、
なんの気なく使っているツール。
だけど、
感情と強く結びついたものであればある程、
身体の外に出すのが難しくなる。
そんな複雑なものを使って、
人々は愛を紡ごうとする。
こう考えると、口下手なあの人が
口下手である所以が
ほんの少しだけ分かる様な気がしてきます。
だからって
ちゃんと言葉にして欲しい
って思うし、
大好きなあの人の声でその言葉を聴きたい
と願ってしまうんですけどね。
恋愛って難しい。
何がって自分の中での葛藤が
歯痒かったりもするから。
頭ではどれだけ最適解が導けていたとしても、
感情がその合理的戦略を良しとしないから
分かっているのに回り道を強いられる。
悔しいなぁって思う。
誰に?って自分自身に。
“もっと上手く立ち回ったらええやん”
って自分に対して突っ込まずにはいられない。
だけど、
“ちゃんと合理的”を淡々と選び続ける自分は
きっと自分じゃない。
アホやなぁ、って自嘲するけど
反面
“そうできゃあかんねん”って頷く。
下手くそやなぁって嗤う。
私も、あの人も。
それでこそ愛してる。
今日も私はあの人を。
恋愛を言語化するって難しいし、
時に儚くて悲しいけど
尊くて美しいですよね。
もしも、奇術師と言葉を交わすことが叶うなら、
その術を教えて欲しいものです。
“素直に悠々と”愛を言葉で紡ぐ方法を。
