皮肉だね、“好き”を知るなんて
期待するって感情に内在する
ナイフの切れ味を
どうやったら鈍くする事が
できるのだろうか。
会いたいなと思う。
声が聞きたいなと思う。
恋しいなと思う。
寂しいなと思う。
大好きなあの人を
側に感じたいと思う。
それだけの思いを募らせて
会う約束を取り付けた時、
その瞬間は嬉しくて、ときめいて
ワクワクする。
やった、会えるんだって嬉しくなる。
でもその日が近づくにつれて
本当に会えるのだろうかと不安になる。
それまでの”約束”が未達成である
数が多ければ多いほど
”本当に会えるのだろうか”
と不安になるし
会えなかった時に傷つく自分は
想像するに容易いからこそ
会えない気がして
勝手に不安になって
寂しくなって苦しくなる。
会えたとて嬉しい、楽しいよりも
ホッとしてると同時に
次を考えては不安になる。
会えなかったら会えなかったで、
やっぱりそうやんな、現実
って嘲笑う。
出会った時に言ってくれた言葉。
出会った時にしてくれた事。
嬉しいかった、素直に嬉しかった。
どうしようもない人生やわ
って思ってたけど、
“ちゃんと”幸せになれるんかもしれへん
顔が綻んだのが自分でも分かった。
いつもやったら疑うのに、
イイハナシなんてないって分かってるのに、
素直に受け取ってしまった。
“素直に受け取ってしまった。”
受け取って“しまった”やけど
なんかちゃう。
もう、いい加減受け取りたいって、
そろそろ幸せにしてくれよって
“願ってしまった”が正しいのかもしれない。
何度も何度も何度も何度も何度も…
沢山頑張らざるを得ない状況に置かれて
それでも弱音を飲み込み続けて、
笑ってやり過ごしてきた。
だから分かってるはずだった。
期待したって碌な事ないって。
慣れてるつもりだった。
期待して裏切られたって、
“しゃーないか。”って諦める事に。
それでも慣れないのは
“やっは期待しちゃダメなんか”
“期待した自分が悪いんか”
という自責をやめられない事と
“やっぱりすんなり幸せにはなられへんのか”
と肩を落とす哀しさだったり
切なさだったり、
一言に纏め上げられない憤り。
“慣れてるつもり”って
言い聞かせて頑張ってきた。
でも言い聞かせるだけで傷付いてる事実を
曲げることは出来なくて。
哀しいなぁ、やっぱり辛いなぁ…
この感情だけは確かに此処に在って
行き場をなくして立ち尽くす。
自分自身も、自分自身の感情も。
そんな事を幾度となく繰り返してきました。
答えも終着点もない感情の堂々巡りを
これまでずっとしてきたと思います。
恋愛においては言わずもがな、
人間関係においても、
私は上手く立ち回るのが下手くそなので
ずっとこの感情と共存している感覚を持って
生きている気がします。
そんな中で最近になって思うのは、
“期待する”なんて当たり前なんじゃないか
ということです。
またここから小難しく考える
私の中の一白が発動するんですけどね、
“期待する”っていう行為を
誘発する感情ってなんなんだろうか?
“期待する”という感情の
根本にある感情は何なんだろうか?
ということを考えてみた時に
結局はワクワクする感情やったり
“楽しい”を予告する感情が
発端になるのではないでしょうか?
だからこそ
ヒトは“期待したい”と思うし
“期待する”のではないでしょうか?
少なからず好きな人との予定や約束、
好きな人から“予告”があって
嬉しいって思わない事はないですよね。
そう考えると
そら期待するわなぁ!?
って思えてきませんか。
そして、そう思えばこそ、
“好き”がまだそこにあるから
不安にもなるし、
がっかりもするし、
哀しいって切なくなる。
見方によれば“まだ好きがそこに在る”こと
の証明だったりもするのかもしれません。
確かにそうでした。
“好き”が少しずつ薄まっていた時
ーその時はまだ“好き”だと思っていましたが
悲しいとか
がっかりしたとか
そんな感情より
なんとなく“そうなること”を予想して
動いていたし、
故に予測が覆り予定通りだった時
逆に(?)“マジかよ…ダル…”
って内心思っていた気がします。
勿論当時のお相手には
言いませんでしたが(笑)
そんな事を綴りながら思い出しました。
そう考えると
“期待する”って行動も
“期待してガッカリする”っていう感情も
“どれだけ本心で相手を好きだと
思っているのか”
を計る
バロメーターだったり
するのかもしれませんね。
好きなもの
好きなことへの期待値を
完全なる0%にすることは
不可能なんだと思います。
差はあれど、僅かかもしれないけど、
好きである限り期待するのがヒトという
生き物なんだと思います。
だったら期待しちゃって
いいじゃないですか。
というか
期待出来てよかったって思えたら、
ちょっと安心する気持ちもありますよね。
よかった、まだ好きだ。
沢山の好きを届けてきて、
沢山ガッカリもして、
沢山哀しい思いもして、
沢山泣いて。
いつの間にか分からなくなってきた
“好き”を
ガッカリする事で気付けるのは
皮肉かもしれません。
でもその皮肉に
好きでいられる未来を紡がれるなら
皮肉だって悪くないって
思えるのかもしれません。