後悔がないようにって言われたって
日付変わって昨日は3月11日。
未曾有の大震災が日本を悲しみの渦に
巻き込んだ1日でした。
戦後を生きる私たちにとって
急に愛しい人を失うかもしれない
ということへの恐怖感や、
愛しい人が今日も生きていてくれるんだ
ということへの尊さを、
鮮明に体感させられる出来事だったのでは
ないかと思います。
そんないろんなことを考えさせられる日。
SNSでも
”後悔の無い様に生きよう”
”会いたい人には会える時に会おう”
”伝えられるうちに伝えよう”
なんて文言で溢れています。
それが出来たら苦労しないよ
ってどっかで思っちゃう自分が居るんです。
震災で、という訳では無いのですが、
かつてお付き合いしていた方で
ある日突然消息を絶った人間がいました。
今も安否は分かりません。
それでも一向につかない連絡に、
どこかもう、この世にいないのかもしれない
と思ってしまうこともあります。
最後に交わした連絡を遡ってみると、
どう頑張っても優しくなれなくて
強く当たるような言葉を綴ってしまった
自分のメッセージと、
”早く会いたい”に
珍しく”ごめん”と付け加えた
彼からのメッセージ。
その連絡からさらに遡ってみてみても
私からちゃんと”好き”って
伝えた言葉は見当たりませんでした。
好きだった。大好きだった。
でも、それが故にどこにもぶつけられない
折り合いもつけられない我慢も多くて。
どんどん優しく受け入れられない自分が
”好き”を言わなくなっていた。
今思えばたった2文字。
”好き”くらい言ってやればよかった
って思います。
しんどいこともいっぱいあるよ、
正直あなたが居ない方が
無理はしないでいい。
頑張らなくていい。
それでも好きになっちゃったんやから
仕方ないよね。
そういう感情も全部飲み込んで伝えるよ、
”好き”って。
そんな風に言ってやれば
よかったのかもしれません。
でも言えなかった。
頭でどんだけ解ってても、
言った方がいいって解ってても、
素直にそう思えない時ってあるんですよね。
思わなくたって、
文字に起こすだけなら「無」で
送れるんとちゃうん?
確かにそうかもしれません。
送るだけならいいじゃない?って。
でも、それすらしんどいなって
思っちゃう時だってあるんですよね。
だって、傷付いた事実まで
なかった事には出来ないから。
沢山泣いた事実まで
水に流すことなんて出来ないから。
難しいなって思います。
”後悔の無い様に生きる”
”会える時に会う”
”伝えられる時に伝える”って。
人間だから。
全部の行動がストレートで、
素直で、まっさらで。
そんな風に割り切れないんです。
いっぱいの葛藤と
いっぱいの苦悩が
どうしても掛けてしまう、ブレーキを。
それら全てを孕んだ広義的な葛藤を
どこに落とし込んだらいいのか。
難しくて、苦しい。
生まれた時から
いつかくる終わりに向かって歩く。
沢山の後悔を轍にして歩いていく。
その答えをいつかは知らせてくれよ、
そんなことをぼーっと
考えながら今日も眠りにつきたいと思います。
東日本大震災で亡くなられた方々への
哀悼の意を。
東日本大震災の傷が癒えぬ方々への
愛憐の意を。
静寂なる夜に合掌を。