2019年 日本史1級 論述式① | 高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史テーマ別人物伝 時々amayadori

高校日本史レベルの人物を少し詳しく紹介する。なるべく入試にメインで出なさそうな人を中心に。誰もが知る有名人物は、誰もが知っているので省く。 たまに「amazarashiの歌詞、私考」を挟む。

◯論述式 前編

論述題A ・・並

[ 次の史料は鎌倉時代の戦乱についての論評である。この戦乱を筆者はどのように評価しているか。史料中の「法皇」,「後室」,「上」を具体的にあげ、そのように評価する根拠にもふれながら、80字以内で説明せよ。]                                                      

史料:                                              
【 王者ノ軍ト云ハ、トガアルヲ討ジテ、キズナキヲバホロボサズ。頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給、コレミナ法皇ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンハ、上ノ御トガトヤ申ベキ。謀叛オコシタル朝敵ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ。カヽレバ時ノイタラズ、天ノユルサヌコトハウタガヒナシ。】 (『神皇正統記』)

・・・・・・・・・・・・・・・

 最後に思いっきり『神皇正統記』と書いてあるので、この文章の著者は中世南北朝期の南朝の重臣、北畠親房(きたばたけちかふさ)であるとわかる。
 問題文にも「鎌倉時代の戦乱」とあり、「頼朝」「(北条)義時」の名も出てくる。ここから文章は鎌倉時代前期に起きた承久の乱(1221年)についての考察であると推定できる。

 ならば具体的にあげるべき「法皇」「後室」「上」とは、順に「後白河法皇」「北条政子」「後鳥羽上皇」のことである。
(出家した上皇は「法皇」と称され、「後室」は「正室」「側室」と同じ用例で要するに奥さんのこと。)

・・・・・・・・・・・・・・・

模範解答:
[ 源頼朝の守護職は後白河院が認めたもので、北条政子らも人々の期待に背いていないため、北畠親房は、わずかな理由で義時追討を図った承久の乱を、後鳥羽上皇の過失とした。]

・・・・・・・・・・・・・・・

 キーワードとして「源頼朝」「後白河院(法皇)」「北条政子」「後鳥羽院(上皇)」「承久の乱」は入れるとして、あとは史料の記述に沿ってこれらをちょちょいと並べていくと、もうすぐに80字である。(「北畠親房」はオプションで入れても。)

 史料は古文であるが内容は読み取りやすいので、固有名詞を明らかにしながら要点を辿っていけば得点できるだろう。


◯北畠親房と『神皇正統記』

 以前に本ブログで「北畠親房」と『神皇正統記』について書いたことがあるので、詳しくはこちらをご覧ください。



 『神皇正統記』をちょっと読んでみたいと思った方は、古典文学体系なんかの全集に収録されているものを探すのも一手であるが、手軽に読めるこんなのもありますよと。

 刊行からそれほど時も経っていないし、ちょっと分厚いけど文庫版で現代語訳もしてあるので読みやすいと思う。

 さて問題として出された史料の部分は『神皇正統記』の中でも「仲恭天皇(廃帝)」の項にある。
(『神皇正統記』は天皇紀・皇代記の体裁をとるため、承久の乱についてはそれが勃発した時に在位した「仲恭天皇」の項に収められる。乱に連座してこの天皇は「廃帝」として処されちゃうんだけれど。)

 承久の乱について記したその論評は北畠親房の思想が顕著に表れているとともに、『神皇正統記』の一つの出色となっている。
 ではその前後の文章を上の文庫の現代語訳から抜き出してみよう。

・・・・・・・・・・・・・・・

 承久の乱の功罪

 さて、この世の乱れについて考えてみると、まことに後の世においては迷うこともあるであろう。また、下克上の端緒にもなるだろう。事の起こる理由をよくわきまえておくべきである。

 源頼朝の勲功が昔から例のないほど大きなものであったとしても、ひとえに天下の実権を握ってしまったことは、天皇として心やすからずお思いになるのも当然だろう。
 まして、頼朝の子孫が絶え、尼となった後室の北条政子や、陪臣の北条義時が幕政を握る世になってしまったからには、後鳥羽上皇が彼らの地位を削って、御心のままに政治を執り行うべきである、ということも一応、筋が通った道理である。

 しかし、白河・鳥羽の御代のころから天皇政治の古い姿はしだいに衰え始め、後白河院の御時になると、武力による争いが続き、奸臣のために世は乱れた。人民はまさに塗炭の苦しみに落ち込んだのである。
 この時、頼朝が武威を振るってその乱を鎮めた。王室は古き姿にかえるまでには至らなかったが、都の戦塵は収まり、民衆の負担も軽くなった。上も下も安堵し、国の東からも西からも人々は頼朝の武徳に伏したので、実朝が暗殺されたとはいえ、鎌倉幕府に背く者があったとは聞かない。

 天皇方がそれにもまさるほどの徳政を実行することなくして、どうして簡単に幕府を倒すことができるだろうか。そして、たとえ倒すことができたとしても、人民が安心できないようであれば、天も決してこれに同意して与することはないだろう。

【 つぎに、王者の軍(いくさ)とは、科(とが)ある者のみを討ち、罪のない者を滅ぼすことはない。
 頼朝は高官にのぼり、守護の職を賜ったが、これはすべて後白河法皇の勅裁によるものであり、頼朝が私意で盗み取ったものと決めつけることはできない。頼朝の跡を後室の政子が仕切り、義時が長く権力を握ったが、人望に背かなかったのだから、臣下として罪があったというべきではない。
 一通りの理由だけで追討の兵を挙げられたことは、君主としての過ちと申すべきであろう。謀叛を起こした朝敵が利を得た場合と比べて論ずることはできない。そうであるならば、後鳥羽上皇の幕府追討は、時節に至らず、天も許さぬことであったことは疑いのないことである。】

 しかし、臣下が武力で君主を討つなどということは極めて非道なことである。いつの日か皇室の威徳に従わなければならない時がくるだろう。
 まず、真の徳政を行い、朝廷の徳威を立て、幕府を倒すだけの道をつくり出すことであり、その先のことは、それが実現できてからのことである。それと同時に、私心を無くして、征討の軍を動かすのか、弓矢を収めるのか、天の命に任せ、人々の望むところに従われるべきである。

 最後には、皇位継承の道も正路に復し、後子孫である後醍醐天皇の御世に、公武一統の聖運を開かれたのだから、後鳥羽上皇の本意が実現されなかったわけではなく、たとえ一時であっても、気の毒な境遇に陥られたことは不本意なことである。

・・・・・・・・・・・・・・・

 どうだろうか、結構本気でディスられている後鳥羽院がちょっと可哀想に思えてくるのではないだろうか。

 ちなみに『神皇正統記』に並ぶ歴史書『愚管抄』はこの後鳥羽上皇の挙兵を思いとどまらせることを目的として著されたとも言われ、中世二大歴史書に諌められちゃう稀有なお人である。これで『新古今和歌集』を撰するという文化的功績のプラス分がなかったら、どうなっていたことやら。

 まあ、親房の言い分もわかる。この承久の乱の結果、上皇を頂点とする公家社会の経済基盤である荘園の多くが、北条氏を代表とする武家側に戦利として没収されてしまった。
 この時を境に公家と武家の力関係、パワーバランスは完全に武家側に傾き、政治権力の大部分を武士が有する構造へと移行してしまう。
 中世の基調となるこの構図に生涯をかけて抗った親房から見れば、その構図の決定的な端緒となった後鳥羽院の挙は、つい辛めに評したくなるものだったのだろう。

 ちなみに、上の引用からもわかる通り、親房は鎌倉幕府前期の執政者に対しては称賛を惜しまない風な好評を与えている。
 源頼朝、北条政子、北条義時、北条泰時の統治を誉め称え、反対に討幕を企てた後鳥羽院には点が辛い。
 これは後醍醐天皇の親政を支え室町幕府と戦った親房の来歴から考えると奇妙にも思える評価である。

 実際に上記の文章の後の展開では、後醍醐天皇の鎌倉倒幕と建武新政に大義を与え、新政に反旗を翻した足利尊氏に対しては口を極めて罵倒している。
 つまり鎌倉前期と室町前期の公家・武家それぞれに対する評価が逆転しているのである。ここに大きな矛盾があり、『神皇正統記』の歴史書としての限界が指摘される欠点でもある。

 しかしその同じ文章の中に「君徳論・名分論」、「君主に賢徳を備えることを求め、臣下は上に忠義を尽くす」という儒学の影響を受けた独自の思想が見られ、威徳と大義が十分でないならば君主たる天皇(上皇)の行状にすら批評を加えるという独自の道徳観が展開される。

 この道徳観が、後世の思想家が『神皇正統記』に倣うことになる重要な理念を形成するのである。
(倣ったというか、各々の都合のいいように援用したとも云う。)