片輪者一代 藤原教諭

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久しぶりの投稿です。といっても実はこれ、作り置きしていて投稿したつもりでいてしてませんでした。

長いこと、投稿してなかったのは、実家に帰っていたからで申し訳ございません。

といいつつも、まだ実家にいます。

今回の滞在はほぼ1カ月。そのほぼすべてを就活投入しました。
今のところ二次試験まで残ったのは4件。結果はまだ出ていませんが、いつもここまではだいたい残るんです。

履歴書が転職回数が多いのと、偶然なんですが倒産転職ばかりしている点から、ブラックなために、最終家庭まで残されてその最後にふるいにかけられて落とされるということが続いています。まあ、履歴書に嘘は書けませんからね。どこぞの国の人間みたいに通名や嘘が平気で書けたらこんな苦労はしないんですけどね。さて、それでは久しぶりの自分史に戻りましょうか。
さらっとあらすじだけ追っかけておきましょう。

昭和45年万博の年に生まれた。人相の悪い赤ん坊は左手首に入れ墨のような痣を身にまとい、生後すぐの発熱で目が外斜視になり、余計に目つきが悪くなっただけでなく、真正面を見据えていても余所見しているようなめつきになってしまいました。この外見ゆえに、幼少期から汚物扱いや人相の悪さから第一印象を悪くして敵を作るようになり、集団生活の中で生き残るためには武力と謀略でのし上がるしかないと極端な思想を持つにいたり、教師と衝突ばかりを繰り返していくことになってしまいました。
そんな私にも何度かの転機がありましたが、そのせっかくの転機を生かすことなく、引越しを繰り返すたびに益々悪質さを増す救いようのない悪ガキにとなっていきました。

保育園の時には自分を陥れようとした園児仲間を毒殺しようとたくらんだり、
幼稚園の時には教師に悪態をついて物置小屋に閉じ込められたり、
小学校にあがってからは女の子ばかりの集団から集団暴行を受けて、その仕返しに運動会で暴行をふるった加害者相手にわざと転倒して彼女のブルマをパンツ事引きずりおろして下半身フルヌードの御開帳をして辱めたり、
小学校二年生の時には学校で担任教師に叛旗を翻して教室で立てこもり事件を起こしたり、

小学校3年の時には教育委員会に出廷して担任教師の不正を暴露して失脚させるなど無茶苦茶を通り越して、小学生とは思えないえげつなさと巧妙なやり口で教師を地獄送りにしていました。
全く隙がない4年時の担任教師との間では特に衝突らしい衝突もなく、表面上は穏やかに時は過ぎていきましたが、私のクラスではなく同学年のほかのクラスでは学校を巻き込むオカシナ事件も発生したりして、やはり、何かを引き寄せていました。

 

そんな中、小学校5年に上がる少し前、小学校4年の2学期頃から実は声が出にくくなりました。
私はまた幼稚園時代に発症したドモリが再発したのかと恐れ、母もそれを心配したのですが、父と兄は別の事だと気づいていたようです。
兄はまだなっていなかったのですが、兄の周りでは同級生が声変わりをし始めていました。中学生の時期に声変わりする子が結構多いのは私も自分が中学生になって初めて知りました。私の場合は身長が既に小3の段階で155㎝を突破し小4の段階では160㎝を超えていました。だから性徴も普通の子供よりはかなり早かったんだろうと思います。

女の子では性徴の早い子は小3~4年くらいでつまり二桁の年齢に達しないうちに初潮を迎える子もいます。
そういう子は小3~4年くらいで大人の身長に手が届き、成長もそこでストップしてしまう子もいるわけです。
私もどうやらそういう性徴の早い子供だったようで、声変わりが始まっていたということのようでした。
高い声を話していたのにその高い声が出せなくなり、この声を失うことを恐れた私は何とか必死になって高い声を守ろうと努力していましたが、努力の甲斐なく高い声を失い一人おっさんじみた声を出すようになっていきました。
一方でこの時に色んな変な声を出しては声変わりを止めようとしたことが今はもうそんなに声音を変える事は出来ないのですが、33歳までの間12~24色の声音を出せるだけの人間になれたきっかけでもありました。

左手首に汚い入れ墨に失敗したような真っ黒な痣をつけて、おまけに、どこを見ているのかわからない外斜視、とどめに子供とは違う明らかに違う低い声、益々見た目の異様さに拍車をかけることになりました。
ただ、流石に小学校5年生ともなれば男の見た目の異様さだけでいじめを仕掛けてくるようなのはほとんどいなくなりましたが、それでもやっぱりそういう馬鹿はクラスに少数派とはいえいる物です。
小5が始まって直ぐに浜坂さんという女性が私と同じ痣が顔についていてその痣の事をクラスメイトの男子がからかいました。

私をからかったわけじゃないのに、私は浜坂さんに飽きたら次は私が同じようにからかわれると下種の勘繰りをして浜坂さんを庇って痣をからかった男子を袋叩きにしました。袋叩きにした男児の顔に自分の左手首の痣を擦り付けて、気持ち悪いか、怖いか、許してほしいか、俺も浜坂さんと同じものがくっついてんだよ。からかいたいほどに関心があるならいくらでも触らせてやると、馬乗りになって無理矢理顔に痣をこすりつけて泣きじゃくる男児生徒にまたがって他の生徒たちが止めに入っても振りほどいて延々と擦り付けました。翌日からこの男児生徒は虐めは辞めたのですが、私が怖くて結局私とは一度も口を利かないままで終わりました。私がクラス関連の事で彼と話しなければならないことがあっても呼び止めようとすると逃げ回るくらいに私に対して恐怖心しか持ち合わせないようになってしまいました。

 

担任は杉教諭から藤原教諭という別の中年女性に引き継がれました。ごくごくその辺にいる普通のおばさんという感じの当時40前後くらいつまりまあ私の両親と変わらないくらいの年齢の教師でした。大阪の市井にいる品のない感じのおばちゃん教師で自分ところにも僕らと変わりない年齢の子供がふたりいました。ところがこれが気の毒なことに1人は先天性の障害者で、おばちゃん教師は子供の世話を旦那の両親に任せて、自分のところでは真っ当な子供と旦那とで暮らしていたようです。

私はこの新しい担任教師の自己紹介の時に猛烈な違和感を感じたのです。
自分が生んだ子供なんだから自分が面倒見るのが筋だろ。
何で面倒な失敗作を自分の親じゃなく旦那の親に押し付けて、自分達は出来のええ子と暮らしてるねん。

そんなんするくらいやったら、教師の仕事棄てて出来不出来関係なしに子供の面倒全部見るんが失敗作産んだあんたの責任とちゃうん?
親に助けてもらうんは普通の子とちゃう分余計に銭がかかるんやったら経済的な面は助けてもらわなあかんかもしれんけど、それ以上の事を頼んだりやらせたりするんは、向こうが面倒見たる言われてもそれは絶対断っててめえのケツはてめえで拭くんが道理なんちゃうんと。

そら、出来損ないの子が暴力ばかりふるって暴れ回るんであれば別々に引き離さんとあかんやろうけど、その辺はどないなってんねんやろなあと色々違和感を感じたのでした。小5の子どもがこんな変な感情や考え持つこと自体もやはり歪み切っていたからなのかもしれません。

藤原教諭はその専門は日本文学だったようで、何本かの日本文学について書物なども出していたようでした。一小学校教諭が本を出すというのはなかなかない事ですから、それは確かに自慢してもいい事だし自慢して当然なことだとは思うのですが、自分の事を自慢ばかりする教師というのにあった事がなかったのでこれまた違和感を感じざるをえませんでした。

 

第一印象があまり良くなく、それでもだからと言って敵対関係に直ぐに入ったわけではありません。

小学校5年生からは強制的にクラブ活動に入る事が命令されていたので、漫画部でもあれば漫画部に出も入ろうかと思ったのですが、ありません。それでじゃあ漫画部を作ろうとして何人かの小3~4年時のクラスメイトに声をかけ署名をもらってこれだけの人間が漫画を描きたいといってるんだから、漫画部を作ってもいいだろうかと打診を図りましたが、学校側が漫画なんかは怪しからんといって拒否。結局漫画部は立ち消えになってしまいました。ところがやりたいクラブ活動が全くありません。それで同じようにやりたいクラブ活動が全くない連中を集めて、当時女の子を中心に一部男子でも流行っていたのですが、文通がブームになっていて、文通部というのを新たに作らせてくれと言いました。

ところがこれもどこの馬の骨ともわからない人とやり取りをして、そのうち相手が文章を合わせるのに長けた人間なら会ってみたいというのが人情だから休み期間に会いに行ったときに実は小児性愛者だった場合どうするんだと言って却下されそうになったので、ここにいる連中とだけ文通をしあうんですと嘘も方便で言い逃れして何とかしぶとく許可を得ようとしたのですが、危険が伴うから却下と結局駄目でした。

私は二回も知り合いを誘って二回とも創部に失敗し面目丸つぶれにされてしまいました。

私自身は二度とも自分の意見が通らなかったので、三度目の正直と今度は誰も誘わないで自分だけで創部を企図しました。

潰されてもいいと思って提案したのです。その名も帰宅部。

やりたいものが学校にないため、家に帰ってやりたいことをやり、何をやったか翌日担任教師に報告するだけという部活を作ろうと企図したのです。あまりにもなめたふざけた創部内容と企画だったために、クラブ活動の創部に関しては直接校長に直談判するしかなかったので、三度目の訪問でなめ切った私の提案に校長は激昂し、
「貴様が今後どんなまともな提案をしてきても創部を認める気はない。諦めて今あるクラブ活動の中からやりたいものを選べ」
と行ってきました。
私がいくら創部の提案をしても創部させる気が全くない事はこれで十分に理解できました。
学校側とは秋葉の件で完全に敵対関係になっていた私と学校側では私がいくら良い提案を使用と受け入れる気はなかったのでしょう。
当時は学校における競争社会の矛盾が爆発して学校崩壊学級崩壊体罰問題教師のモラルハザードなどが問題視された学校自体がもう組織としてかなり限界が来ていて組織改革しないとやばいという時代に差し掛かっていた時でした。そこで学校側が体制建て直しの切り札としたのが管理主義教育で教師の威厳の再構築と、不良品生徒への対応でした。不良品生徒を差別化して、これを無視孤立化させ、犯罪行為を行えば情け容赦なく警察や検察というゴミ箱に捨てるという方法をとっていました。私もやり方があくどすぎたので目立ってしまい、学校側からは不良品扱いされていたんだろうと思います。
仕方ないので将来何か役に立つような技能が身に付いたらいいなあと思い、漫画を描くのにも必要な技術の一つだし、これだけで御金もらっている人もテレビでその当時放送されていました。それで選んだのがレタリング部でした。

 

元々芸術的センスがないので不器用で結局身にもつきませんでした。

このレタリング部の部員の中に私と男子はあと一人だけ。加藤というのがいました。

小5の時にはじめて同じクラスになり、同じ箕面ハイツという集合住宅の別棟ですが、住んでいました。

そのため家も近いし直ぐに仲良くなったのです。

 

ところが段々に色んな所がかみ合わないことがわかってきて、お互いの事が嫌いになって行きました。

そのまま自然に物別れして別々のコミュニティーに入ればよかったのですが、素早く4月の初旬にはもう既にコミュニティーがしっかりと確立されていてどこにも受け皿がなかったからです。受け皿がなくて孤立するということに二人して気付いたために、二人の関係は屈折した犯しな関係へとなって行きました。加藤は勉強は出来るのですが、小柄で体力がないため結局体格の差武力の差で私が加藤を一方的にからかい虐める関係へと歪んだ形で継続していきました。この歪んだ関係を壊すためには私が転校する、或いは加藤が転校する、或いは転校生が来て私か加藤かどちらかが今の関係を切って転校生と仲良くするこれくらいしか方法がありませんでした。加藤への虐めは加藤との関係を切りたかった私から積極的に仕掛けました。おとなしい性格の加藤が私との縁を切りたくて嫌がらせ行為をする事なんてできるわけがありません。それに私は日頃から冷酷に不要なものは切り捨てていましたから、躊躇いなく加藤へ容赦なくいじめを続け、加藤が離れていくことを期待しました。ひょっとしたら露骨な虐めにクラスの同情を引いて誰かのコミュニティーが加藤を拾って呉れるかもという算段もそこにはありました。
ところが同じレタリング部でこのレタリング部の顧問が藤原教諭でした。

加藤へのいじめに一番に気が付き、熱心に止めに入ろうとしましたが、私に止める意思がないため虐めはエスカレートして行き、加藤に非があって虐められているなら互いの問題がありますが、特に非が無くて、関係を切りたいからやっているためここに先生が介入しても関係が改善することはないばかりか余計に増悪するしかありませんでした。

 

関係を切りたいから嫌がらせをしているのにそれを妨害しに教師が介入するというややこしい状態が続き、こうなってはもうどうしようもないと自分が悪役に徹して縁切りすればいいと思い、加藤への虐めも益々露骨にそしてエスカレートしていきました。それをまた藤原教諭が止めようとする。完全に悪循環にハマっていました。

そんなときに伊豆本という生徒がゴールデンウィーク明けくらいから転校してきてくれたのです。


願ってもないチャンスでした。
しかも伊豆本とは話をしてみると同じ歴史馬鹿、伊豆本の場合はその特殊な苗字から、自分の苗字の研究から家系図関連へのこだわりが非常に強く、私の歴史馬鹿にまだ家系図への関心がなかったので、伊豆本と知り合ったことで当時存命だった祖父や父からも本名の所縁になった話を聞くようになりました。また伊豆本の父親が歴史関係に趣味でか仕事でかはわからなかったのですが相当に造形が深い人で家に呼ばれたときに歴史関係の辞典が家中にあって、また父親とも歴史の話が出来たために完全に私は伊豆本の虜になってしまいました。
伊豆本は人当たりのいい性格をしていたために、友達に飢えていた私と加藤を公平に招き入れてしまったために結局私は加藤との関係を完全に断ち切れないままでいました。お互いにもう憎しみしか残っていない加藤と私。だけどクラブ活動という強制力が働いて縁が切れないために切り離したくていじめをする私。加藤は私と縁を切りたいのだけどそうするとせっかく友達になった伊豆本を全部私にとられてしまう危険があるために私との縁が切れない。何とも不思議で嫌な腐れ縁となってしまったものでした。

 

加藤は歴史に対する興味関心は全くありません。
だから趣味の話だとわたしと伊豆本は完全に合致するために伊豆本も他のクラスメイトともも勿論仲良かったのですが、一番親しくしてくれていたのは私でした。そして私には伊豆本だけじゃなく伊豆本の父親とも無二の親友みたいな関係になっていました。

 

私は全く知らなかったのですが、陣取りゲームを箕面の山でやって遊んでましたが、それよりもう少し奥の方に行ったところに、本当の山城の跡、止々呂美城跡というのがあるというのを教えてくれ、現地まで連れてってくれて、説明までしてくれたのも伊豆本の父でした。

私にとって伊豆本ファミリーは憧れの的の様になっていて、この関係に邪魔して入ってくる加藤が本当に鬱陶しくて邪魔で仕方ありませんでした。

 

ある時加藤と何が原因だったか忘れたのですが学校で喧嘩をし加藤が激しく抵抗したので思い切り突き飛ばした拍子に加藤がまともに窓ガラスにぶつかって大怪我をしてしまいます。全身血まみれになって出血が止まらない加藤を見て何も手が出せずにただ茫然としていた私は伊豆本という友人迄この時失ってしまいました。

伊豆本は加藤のもとに駆け寄って止血を一生懸命しようとして自身が血まみれになりました。

クラスメイトの米長、植田というクラスの軸になっている生徒は保健室へ急いで走り、女子の方で女子をまとめていた宮崎というのが割れたガラスを箒を使って他の女児たちにも手伝わせて後片付けをしている中、私は本当に何もしなかったのでした。

 

当時者が何もしないで無責任に放置していたことは他の生徒からの心象も一挙に非常に悪くなり、私は完全に孤立しました。


曲がった事が大嫌いで、謹直な性格をしていた伊豆本は私に絶交を告げると本当にそれから一切私を呼ばなくなりました。

ところが、伊豆本の謹直さは徹底していて私と伊豆本の関係は絶交でも伊豆本の父と私の関係は別に学校でのトラブルが原因で切れる必要のないものです。だから伊豆本は君がうちに来て父と話をするのは止めはしないが、私がもう君と話することは幾ら趣味が一緒で幾らでも話が合う中であってももう絶対にありえない。人に怪我をさせて置いて血まみれにしておいて何も反省もしないし、助けも使用としなかった人間味のない人とは口も聞きたくないと言い切られてしまいました。

加藤はこの時の怪我が原因で入院し、1週間ほど入院しました。

 

私の両親は私を連れて謝罪しに行きましたが、加藤の両親は子供のやった事ですし、傷跡も残らないというのですから、今後喧嘩をしないでお互いに仲良く付き合ってくれるのであればそれを和解としましょうなどと、かなり穏便にことを納めて呉れました。

私が加藤に何かをするということはなくなりましたが、クラスメイトは冷酷で薄情な私を当たり前ですが許す気にはならず、必要最低限以外のコミュニケーション以外は誰も私とはとろうとはしなくなりました。子供にとって学校へ行っている時間は起きている時間の中でも相当はウエイトを占めます。この間、ずっと誰とも話をすることなく無言で過ごすことは非常につらい事でした。ところが自分がそれだけのことをやらかしてしまったのですから、どうしようもありません。

 

ある日、藤原教諭から提案がありました。

加藤君が学校に通えるようになったその日か次の日でもいいからクラスのみんなにあなたが謝りなさい。

そうしたらクラスメイトもあなたとの関係を無視する関係を辞めてくれるかもしれませんよと。


はあ?知ってるんだったら、てめえが間に入って取り持つのが筋だろ??

俺が孤立してるの知っててこいつとぼけて手を出さなかったのか?

 

なんて糞婆だ!

 

私の当時の歪んだ感情ではこう捉えてしまいました。

 

私は藤原教諭の提案を受け入れず孤立の道を選択しました。

 

確かに藤原教諭の提案を受け入れて誠心誠意の謝罪をすればクラスメイトとの和解もできたし、伊豆本との和解も出来たかもしれません。
けど、それを先に提案されてしまってはあいつ藤原にそう言えって言われてやったんだぜというのがどこからか漏れ伝わったらただ恥をかいただけで終わりです。それどころかあいつ全然反省してないで芝居を見せつけただけだぜ。だってあいつ、秋葉先生の家庭を潰した恐ろしい奴だぜ。あいつが市教委を抱き込んだから秋葉は教師が出来なくなって辞めちゃったんだといううわさを流されてしまう危険がありました。

冷酷非情さの話で病弱な老婆を抱えていた秋葉の教師生命を断ち切った畜生生徒それが滝山というのは広く学校内に膾炙していました。

人のいない場所で藤原と二人だけでそういう話をしたのならいいのですが、大勢の人がいる中で提案されたのです。誰かほかの人が聞いていて漏らされたら台無しです。確かにいい提案ではあったし、それしか改善する方法はなかったのですが、これではもうその手が完全に打てなくなってしまいました。思い付きや感情で行動する教師だったのでこういう細かい配慮が本当にかけている女としてはザルな教師でした。

 

私はクラスメイト全員を敵に回した状態で夏休みに突入しました。
つまり加藤が退院してきても一切謝罪もしないし、口も聞かないし、挨拶もしませんでした。

もうこうなれば徹底的に敵役として嫌われた方がせいせいすると、自暴自棄に加藤へのいじめを自分のストレス解消の道具のためにエスカレートしようかとも思いましたが、それでは穏便にことを運んでくれた加藤の両親へも喧嘩を売ることになり、これでは最悪裁判沙汰になる危険も出てきます。そうなれば私個人は構わないけど両親を巻き込むことになるので、グっと堪えて、我慢し、お互い無視しあう関係を続けるしかありませんでした。

 

クラスメイトとの夏休みの遊ぶ予定なんてありません。
小3~4年の時のクラスメイト数人が当時も付き合いを残して呉れていたのが何人かいて彼らが居なければ私の夏休みは本当に寂しい夏休みとなっていたでしょう。

ところが、この時に父はかなり深刻な状態に陥っていたのでした。

 

父は高校を卒業して4年後の22歳の時に母と結婚しています。
勿論その4年間は一人暮らしをしていたのですが、一人暮らしとは言え独身寮があったためにそこに入っていたそうです。ところが、その独身寮が入居して直ぐに取り壊されてしまい、それからは親戚の家を転々と居候させてもらったそうです。父自体が居候生活が親戚に迷惑をかけて申し訳ないから1年毎に親戚の家を転々と移動したそうでした。つまり父は一人暮らしとは言いながら実質ほとんど一人暮らしをしていないのです。自炊が出来ないというわけじゃなく自炊も出来るのですが、する必要がなかったのです。

だから本格的な一人暮らしとなった岡山転勤は食べ物に関して父にブレーキをかける人間がゼロになった事を意味し、しかも下手に自炊が出来る分、余計に偏った食事になってしまったのです。父は脂身の多い肉を好んで食べていました。

私は子供の頃から母の料理の影響であっさりしたものばかりが好きでしつこい料理が嫌いだったので肉は好きでしたが脂身は嫌いで赤身の肉ばかりを食べていました。

逆に父は子供の頃からあっさりした料理ばかり食べさせられたために大人になって覚えたしつこい料理を好むようになり脂身の多い肉を好んだり、てんぷらやからあげなどの油を使った料理ばかりを好むようになりました。そして父が好きということを母も知っているから仕事で疲れて帰ってきているんだからせめて食事くらいは好きなものをたくさん食べて気分よく寝てもらって翌朝また頑張って働いてもらおうという考えから全く健康とかそういう考えなしに父の好きな料理ばかりを出すようになりました。

それは子供が出来てからも変わらなかったのですが、一時本当に金策に苦しんだ時期は子供が好きな料理を優先して出すようにし、大人である夫婦は食事を質素に我慢しようとした時期もあったのです。

ところが江東区の家のローンを払い終えたらもう別に、食事に制限をかける必要も無くなり、子供と父が好きな料理ばかりを作るようになっていました。健康とかそんなことは考えていませんから野菜が全然ないということはないのですが、野菜は少なく肉類が多い食事であったことは間違いありません。

そんな食事を食べさせられ続けて、さらに一人暮らしで完全に自分の好きなもの以外は食べなくなった父、当時父は40代になっていましたから、当然蓄積された悪い習慣がたまりにたまって爆発してもおかしくなかったのでした。

 

そしてある日のこと仕事中に父は気分が悪くなってどうにもならなくなり、職場で自分で救急車を呼んで緊急入院します。

 

職場から緊急搬送された病院では原因が究明出来ないので、国立病院へ転院させられ、そこで胆石であることが判明しました。

 

今は腹腔鏡下手術で簡単に患者にも負担をかけることなく手術が出来ますが、当時はそんな技術有りません。

 

胆石をとるか胆石を薬で溶かして小さくしていくかという方法しかありません。結局胆石をとるということになり、その手術のために国立病院に入院することになりました。緊急入院したから着替えもへったくれもありません。母は父から入院して暫くしてから入院した事実を知らされ着替えやなんやかんやと準備して岡山に移動しました。結局手術後も退院まで1か月かかりました。

 

母は身動きできない父のために大阪岡山の間を新幹線で何度も行き来していました。

 

胆石はとりあえず治った。だけど、このまま父をほうっておいていいのか?

 

一人暮らしをしている限り、常に好き勝手な食事をとるだろう。
胆石は取ったらそれでおしまいというわけじゃなく食生活を変えないとまた胆石が出来て癖の様に石が出来続けると医者に言われたそうです。
だとしたら自分の食事に無頓着な父は医者から駄目といわれても一人暮らしさせていたらまた揚げ物中心の生活をするに違いない。

父のためにもこれは子供たちを連れて転居した方がいいんじゃないか。

いや、それとももう父も大人なんだし、それに高松と岡山で高松からも近いから祖父に頼んで祖父にたまに様子を見に行ってもらおうか。

何だったら船での通勤は大変だけど祖父と高松で同居してもらってそこから通勤してもらうという手もいいかもしれない。

 

色々母は思い悩んでいたようでした。

 

祖父にその事を相談すると、当たり前ですが、「この年になって子守は出来ん」という答えが返ってきました。


公共交通機関を使っての通勤は物理的に無理でした。時間が足りないのです。

車通勤であれば朝5時くらいに高松を出れば間に合いましたが、毎日そんな地獄通勤が出来るかという問題も生じます。

 

今なら勤め先の社宅から車で5~10分。一人暮らしをさせたら半年と持たないで体を壊してしまったようではまた同じことを繰り返すでしょう。

だから岡山がどんなところかはわからないけどやっぱりこれは子供を連れてとりあえず至急社宅で家族同居しないとどうしようもありません。

社宅で犬が飼えないのは解っているから社宅は一時的な緊急でしばらく住まわせてもらうだけにして箕面の荷物を全部持って行ってぶち込めるような大きな広い家に住まないと住めない。とりあえずは急いで社宅に住んで、後は向こうについてからじっくり腰を据えて生活出来る場所を捜そう。

 

そう、母は決断したようでした。

 

決断してからの母の行動は非常に早かったです。箕面の知己で岡山に住んだ事がある人、或いは知り合いで今岡山に住んでいる人のところを回れるだけ周り、岡山市でも京山地区がいいというのを突き止めてきたのでした。京山地区というのは岡山市立京山中学校の学区つまり岡山市立伊島小学校と岡山市立津島小学校の学区ということになります。津島小と伊島小ではどっちがより学区として暮らしやすいかあるいは小学校としていい小学校かとなると、当時は伊島小の方が圧倒的に評判が良かったんです。今はどっちが上かはわかりません。

 

父の会社があるところつまり、父の会社の社宅がある学区はどうかというとよくない噂しかないようなところでした。好き好んであんなところに暮らす馬鹿はいないとまで言われるほどにぼろくそに評判が悪かったので、いずれ伊島に住むとしても特例で半田山から伊島小にバス通学、兄の場合は自転車通学を認めさせるように交渉しないといけません。家庭の事情から根掘り葉掘り馬鹿丁寧に実際に起きたことを事細かく説明して住んでる学区は違うのはわかってるけど伊島小学校と京山中学校に通わせたいという母の熱意は学校側にも市役所側にも伝わりました。ただ、今住んでいる人がいてもいいから伊島小学校や京山中学校の学区内に家を借りる予定があるという証明だけは9月までにしてほしいという条件が付きました。

 

すると幸運なことに同じ箕面ハイツの違う号棟に住んでいて私と同学年の男の子で三木君という子がいました。
彼が先に小学校4年の三学期の終わりに引っ越しをして小5の頭から伊島小学校に通っていました。そして三木君のクラスメイトの林君がお父さんの都合で10月に転校することが決まっていたのです。そして林君の家は三木君の家からは50mくらいしか離れていません。

つまり林君のお父さんが借りている家をうちが借りればいいのです。

 

こんな奇跡的な偶然がありました。

ところが奇跡的な偶然は続くのです。

子供会の知り合いで懇意にしていて子供の年齢はかみ合わなかったものの母親同士で意気投合していた柳井さんという初老の女性がいました。この人が母の急な転居に自分が以前住んでいた伊島町時に世話になっていた高崎不動産という不動産会社に連絡をつけて呉れて伊島小学校の学区内の物件について何か所か資料を取り寄せて呉れました。この中に高崎不動産側から直ぐに出る物件じゃないけど二階建ての古い家で現状渡しのままでよければ家賃5万円で貸せる物件がありますよといっておすすめされたのが、三木君のご両親が進めて呉れた林さんが借りている川原さんの物件でした。今の金額に直せば10万くらいでしょうか。いやもうちょっと安いな。7万5千円くらいでしょうかね。因みに父の会社は家賃補助で9割負担してくれるのですが、それは社宅がない場合。

ところが今回は社宅があるにもかかわらず家を借りているのでそういう場合は5割しか負担して呉れません。それでも2万5千円の負担で済みます。今だったら3~4万円で岡山駅から徒歩30分最寄りのバス停からは10分くらいのところで60坪の庭がついた2階建ての6K男女トイレ別風呂付物件が借りれるというわけです。どれだけ異常に安いかというのが何となくわかってもらえるかなと思います。

 

これでほぼ林さんが借りている川原さんの家を続けて借りる事がほぼ確定的になりました。

 

何せ、実際に今住んでいる三木さんが非常にいいところだよと太鼓判を押し、柳井さんからも伊島小学校と京山中はいいところだと裏取りが出来たのです。柳井さんの一番上の息子さんは当時大学生でしたが阪大医学部に通っていました。何度か柳井さんの家に上げてもらったときに来やすく遊び相手になって呉れた好青年でした。その人が伊島小と京山中に通っていた経験があるといっているのです。

住む環境が子供に与える影響というのは母は江東区、東住吉区、箕面で経験積みでした。
だから東住吉区の失敗をしたくないために、短時間ではありましたが、下調べに人を使ってでしたが住む場所を先に調査したのです。
東住吉の時は私も相当無茶苦茶でしたが、兄もおかしかったのです。本当に悪ガキになっていたのです。
友達仲間に碌なのが居なかったので、遊びも悪い遊びばかり覚えてはやっていました。
例えば公園のベンチの下にウンコを持って来て、それに爆竹を突きさして、ベンチの上に誰かが座ったら導火線に火をつけて爆発させて、ウンコをしたから浴びせかけるというような事を兄はしょっちゅうしていました。私は他人に迷惑かけて遊ぶのは当時流行ったピンポンダッシュくらいでしたが、実際に服を汚すなどの実害を与える兄の悪戯には私も閉口し、一緒にやったことはありませんでした。
もっとひどいのになると、生きている蛙を捕まえて帰るに爆竹を呑み込ませて導火線に火をつけて破裂させたり、カエルの校門に爆竹を突っ込んで破裂させたり、アマガエルやトノサマガエルを捕まえてロケット花火に括りつけて特攻などといってたちの悪い遊びをやらかし、空中で炸裂させたりしていました。もっとたちが悪いのが、ゲーム喫茶に行ってカチンコを使ったゲームの不正です。100円ライターを改造したものでどういうからくりで料金入れないでゲーム機が作動するのかわかりませんが、何しかお金を払わなくてもカチンコを使えば払ったことになってゲームやり放題だったようです。店側にとっても売り上げに影響するんでこれがバレた生徒は警察に突き出されていました。兄は数回やってバレないうちに手を引きましたが、兄のクラスメイトの何人かは補導されていました。そこまでしてゲームがしたかったのかと兄に聞いたことがあるのですが捕まるか捕まらないかのあのドキドキスリル感がたまらなくて、一時期ハマった。だけどクラスメイトが補導されるのを見て怖くなり辞めたと行ってました。兄の目の前で捕まって呉れたどんくさい兄のクラスメイトに感謝しないといけません。
補導歴があればきっと受験や就職の時に致命的な影響を受けていた可能性がありますからね。

兄や私が受験や就活していた時代、昭和末期から平成初期にかけてはまだ前歴照会や興信所に頼んで採用側が身元調査するのが普通の時代でしたからね。
 

私は私で東住吉の時にはあまりにも悪人として有名人になり過ぎていたので、同級生の一部だけが友好的なだけで、基本的には親たちが私と子供が接触するのを警戒していました。そのため、直接私本人が自分の子供と遊んでいると一揆くんと遊んではいけませんといって引き剥がすような親もいました。
凄いですよね。本人要るんですよ。そこで子供の手を引いて本人を目の前にして遊ぶなって言い切れる親の性根が実に素晴らしい。

子供の為なら親は畜生にもなんにでもなれるというのは私も自身が体験しなければきっとわからなかったでしょうし、自分が親のような年齢になった時にやっぱりあの親と同じような行動取るだろうなと思いました。我が子が何より大事ですからね。我が子を狂わすような異分子が混ざりこみそうになればそれは相手が何歳だろうと関係ありません。酷薄に接するだけじゃなく、精神的にも社会的にも相手の子供を殺してでも自分の子供を守るのは親として当たり前です。

私は自分に子供がいなかったから甥っ子たちのシェルター代わりの役割を果たすため、甥っ子を叱るという行為はほとんどしたことがありません。本当は自分が叱りたいと思った場でもそれは親の仕事とあくまでもシェルターに徹しました。だから海外に留学した甥はともかくとして、末の甥は親子喧嘩して罰が悪かったら、私のところへ何度か逃げてきました。それも自分には悪いところがあるという自覚があるから一人では逃げてこないで友達を連れて逃げてきました。友達の家に逃げるよりはうちに逃げて呉れた方が兄も安心しますし、気を使わなくても済みます。私はわざと自分が本当に具合が悪ければ別ですが、そういった場合は席を外して甥っ子たちだけを部屋に泊まらせて自分はカラオケなどに行って次の日朝帰りなどして時間を潰していました。親への不満色んな不満、友達には言えても親戚や親には言いにくいものが多々あるでしょうからね。

 

父の社宅には衣装だけ段ボールケース10箱分、後私と兄の文房具類だけ送って、隣近所だけに引っ越しを伝えて電光石火の様に引っ越しをしました。ピアノは置いたまま、家具も勉強机もありません。父からミカン箱の上で食事したり勉強したりしていたという話を聞いたことがよくありましたが、文字通り段ボールのミカン箱を勉強机にして勉強する日がこようとは思ってもいませんでした。

 

さて次回は岡山へ転向する話となります。

実は父の病気がきっかけで転校したこの岡山での生活が私の悪童人生の中の一つのターニングポイントとなるのです。

よく調べもせずに人の情報だけを鵜呑みにして引っ越し先まで一挙に決めてしまった母の決断は私の人生にどのような影響を今後与えるのことになるのでしょうか。お楽しみに。