片輪者一代 箕面での小噺

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私自身は比較的穏やかにおとなしく過ごしていた4年生の時期には実はいろんなことがありました。
私がかかわっている事件もあればそうでもない事件もあります。

置石事件の多発。これについては前々回に触れました。校長が数回置石事件のせいで引責辞任したのです。

(妊娠事件)
小学生同士の情交で女児が妊娠。これについては学年が違うために詳しい情報は伝聞でしか聞いていません。そういうことをするような子ではないと思われていた二人が情交に及んで妊娠したものの、子宮外妊娠になり、二人の年齢のこともあって中絶し堕胎したというのは朝礼で校長が報告していました。興味本位であるいは欲情に任せてセックスをした結果関係ない人間を一人殺したという二人の罪は一生消えないものですと校長が涙を流しながら演説していたのは今も強く心に残っています。
丁度親戚で不倫騒動があり、しかも妊娠させてしまったという話があり、余計にこの話題は私の中で強烈に記憶に焼き付いています。
親戚の不倫トラブルについてはその後の経緯を私も知らないのでどうなったのかは知りませんでしたが、最近この親戚が死んだ事でその後の経緯もわかりました。親戚が年の離れた若い女性を妊娠させ、もう中絶も出来ない状況になったので、子供を引き取って育て、妊娠させた女性とは別れたそうでした。つまり親戚は自分の本妻の子と誤ってできた子を同じ家で扶養していたようです。相手の女性は女子大生か女子高生か一応結婚しても大丈夫な年齢には達していたようですが、20歳以下だったそうです。それでお前の種なんだかお前が面倒を見ろと言って相手の女性の親が出産した子供を連れて押し付けて行ったそうです。相手の親の怒りはわかりますが、女性本人はどうだったのかが全く分からないですね。本当に間違いで出来てしまったのか、それとも親戚を好いていたのか、そこがさっぱりです。親戚の本妻は自分の腹でもない子供の面倒まで見させられてどんな気持だったのでしょうか。ただこの女性よくできた人で、結局今親戚の家を継いでいるのはこの妾腹の子なんですよ。自分の腹の子達を外へ出して、自分の腹じゃない子に家を継がせるというのはよほどのことがないとできません。兄弟仲は非常によく、上二人が姉で妾腹の子だけが男だったというのもありますが、ベタベタに可愛がっていましたね。今も兄弟仲はいいようです。

(蟯虫検査)
大事件といえば大事件ですね。当時、クラス内で引っ掛かるのは数人、場合によってはいないクラスもありました。
これは4年生の話ではなく3年生の時の話なのですが、私が蟯虫検査でひっかかりました。

クラスで引っ掛かったのは私ともう一人だけで、そのもう一人が超ド級の貧困家庭で、家も藁葺の家に住んでいました。

父親が専業農家をしていて、僅かな田んぼで生計を建てることも出来ず、かといって農業以外の事をしたことが無いため、母親が内職やバイトをして食いつないでいました。家には子供同級生を頭に6人兄弟があり、母親は当時の現代風の顔ではなく、明治大正昭和前期の貧困家庭のようなやつれ果てたひどい顔をしていました。あれで当時30なんぼって行ってたかな。見た感じでは完全に老婆でした。
肥料を買う金もないから人糞肥料を撒いて農作物を作っており、それで蟯虫検査に引っ掛かったんでしょう。
 

当時、私の祖父も人糞肥料で野菜などを作っていたし、箕面に住んでいた時に無尽野菜販売などをしていた農家も人糞肥料を使っていました。そして母方の長兄も人糞肥料で野菜を作っていましたので、私も蟯虫検査で引っ掛かりやすい状態ではあったのでした。
でも引っ掛かるなら私だけじゃなく兄も引っ掛かって当然なのですが、兄は引っ掛かりませんでした。
それは神経質な兄ならではの防衛線を貼っていたからです。

兄は母がスーパーで買ってきた野菜は生野菜でも食べていましたが、無人野菜販売所で買ってきたもの、両親の里から送られてきた野菜などでは生野菜を拒否して煮物野菜しか食べませんでした。私は逆に煮物野菜が嫌いで、生野菜ばかり食べていたので余計に当たる確率を高めてしまったのかもしれません。
ただ、蟯虫に当たってしまったということは、非常に屈辱であり、蟯虫持ちと言われて散々馬鹿にされ虐められたりもしました。しかもわざわざ検査で引っ掛かった人と言って朝のホームルームの時に教壇の前に呼び出すのです。
この無神経な秋葉の対応にも腹が立ちました。
しかし、本当に蟯虫持ちだから言い返すことも出来ずに農家が里という事のコンプレックスだけを強めることになりました。
流石に祖父や伯父たちを責めるわけにはいきません。一応は洗って送ってくれているのですけど、流水で洗っているか貯めた水で洗っているかの違いがあるでしょう。兵庫県も香川県も水がないという点では共通していますから、人糞肥料で作った野菜をそのまま洗いもしないで送りはしていませんから多分桶に水でも張ってそれで洗ってくれていたんだろうと思います。でもこれでは蟯虫の卵を洗い落とすことは出来ません。

駆虫薬が何とも言えない異様な味で味がないまずさと言うのでしょうか。
苦みも甘みも辛味も何も感じないんです。ドロッとした片栗粉みたいな変な薬でした。
それを1週間だったか1か月だったかずっと強制的に飲まされ続けて、糞を確認して虫がいたらその部分だけをピンセットでつまんで、またクリームケース見たいな器に入れて提出させられました。要するにちゃんと駆虫できたかの確認までさせるのです。これも無神経に教壇の前に呼びつけて提出させました。浜崎と私がこの無神経な対応でどれだけ嫌な思いをさせられたことか。秋葉を市教委を使って粛清したのはこの時の恨みも勿論ありました。蟯虫検査のようなデリケートな事案をわわざわざ公開処刑するなんて無神経にも程があります。
子供の私ですら、こういうデリケートな事案についてはあとで職員室に呼び出す成り、保健室に呼び出す成り、どこか別室に呼んで他の生徒に見つからないように配慮するのが当然だろうと思っていました。
蟯虫持ちというのは人糞肥料で作った野菜をいい加減にしか洗ってないものを食べているから蟯虫持ちになるわけでつまりは不衛生イコール汚いものを食べている汚い人間ということに繋がり不潔な人間と思われても言い返しも出来ない為、こんな恥ずかしい事をクラスメイトの前で晒し者にすれば当然格好の虐めのターゲットにされることは教師でなくても生徒でなくてもだれでもが簡単に推論できる話しでした。
それを無神経に晒し者にした秋葉という軽率な教師の軽率な行為は秋葉が既に鬼籍に入っているような年齢であっても私個人としては許せるものではありません。

 

(箕面一中職員室突撃事件)
箕面一中に通う生徒の親によっちゃんがいて、子供がいじめにあったのよっちゃんの子だからとまともに対応せず逆に虐められていた自分の子供を糾弾したと因縁を吹っかけて、学校を脅迫。学校側が無視する態度をとると、トラックを職員室に特攻させて親が捕まるという事件がありました。特攻したのは夜だったのでけが人は突っ込んだ親以外にはおらず、多分用務員だと思うのですが警察に連絡して現行犯逮捕されたという事件がありました。この当時同中学の1年生だった兄に聞いてみると、親のいい分とは全く違う内容でした。中学でも札付きの悪で学校中にその名が知れ渡り、他の中学の同じ悪い生徒をこの悪と取り巻きが拉致しては身代金を要求するなど相当にたちのわるいことをしていたようです。その事が学校にバレて、担任が厳しく彼を糾弾し、君に縄をつけて常に犬の様に監視下に置くことが出来ないから学校に来なくていいということは言ったらしいんです。そしたら勝手な作り話を生徒がしたのか、親がしたのかわからないのですが、因縁吹っかけて学校に脅しをかけに行き、相手にされないものだからトラックを夜にぶつけに行ったそうです。
まあとにかくおかしな人間が小学校にも中学校にもいたという事です。同じ学区ですから仕方ありません。
人の性質というのはそうそう簡単に変えられるものじゃありません。
研究者や開発者に大人になってなるような人間は、大体夏休みの宿題なんかも一気に片づけようとしないで毎日量を決めてキチンとコツコツ努力してやっていました。
大人になって極悪非道の犯罪者になるような奴はやっぱり子供の時からそんな片鱗を見せていました。
大人の屑というか社会の屑みたいな人間は子供の頃からやっぱり言い訳ばかりして責任転嫁して自分を観ようとしないで、兎に角自分が被害者だ被害者だと騒いでは責任回避ばかりして自分に同情が向くようにばかりしたり、論点をづらしてはなしをそらしたりごまかしたりしていました。こんな子供ホント多かったですね。私もこんな屑でしたが、今から思い返してみてもホント朝鮮してましたわ。


(明治の森箕面国定公園と勝尾寺の思い出)
私の住んでいた場所から箕面の滝までは子供の足で一時間足らずくらいで行けました。まだあの当時は観光馬車みたいなのが客車を引いてウンコ垂れ流しながらのんびり足の悪いお年寄りのお客さんや馬車の風情を味わいたいお客さんを載せて行き来してました。私の記憶では多分二台くらいが運行していたように覚えています。馬車の値段は知らないのですが、私はいつも馬車に乗りたかったんだけど満車で結局一度も乗ることなくいつの間にか観光馬車も廃業して消滅してしまいました。再興すれば一人千円か二千円くらいとっても多分利用する人は利用すると思うんですけどね。

滝の途中にお寺があって、そこも参拝客が結構いましたね。なんだっけなあ寺の名前は忘れました。

箕面の滝を超えてずんずん登って行ったところに箕面ダムというダムがあるんですが、そっちではなくつまり北に行くのでなく東に行くと、日本の寺にしては割と派手な色合いの寺で紅葉でも有名な勝尾寺という寺があります。モミジの天ぷらなんかも勝尾寺のモミジから転じて箕面国定公園のお土産としてブランド化したんじゃないでしょうかね。勝尾寺のモミジが箕面国定公園内に広がって行ったそんな気がしてなりません。これはまあ、私的な考えですけどね。でもあの食べられそうに見えないモミジの葉っぱをどうやって食用に改良していったのかがホント知りたいところです。

勝尾寺のモミジは流石に綺麗でしたね。小学校の遠足だったと思うのですが行きました。箕面の滝までは歩かされたのですが、そこからなぜかバスに乗って勝尾寺まで行き、モミジを鑑賞してまた箕面の滝まで戻り、そこから歩いて滝と箕面駅の途中にある名前を忘れた寺の境内や外れでお弁当を広げて食べたのは憶えています。よく寺側が承知したなあと思います。平日だから参拝客が少なかったから遠足の昼食場所として開放して呉れたのでしょうか。

あとはあちこちにどういういわれがあってなのか知らないですが野口英世に関する記念碑や説明が木みたいなのも結構ありました。

山の中で自然が潤沢に残されていましたから昆虫の資料館みたいなのもありました。標本が沢山小学生の時には飾られていて生きている昆虫の放し飼いはしてなかったのですが、2000年代の後半に箕面の山を登った時には昆虫の放し飼いをしていました。今はどうなんでしょうね。辞めちゃったという話もきいているんですが、どうなんでしょう。

箕面の滝までの道筋に野生のアケビが結構ありました。
いまだから言えることですが、遊歩道からは当然外れた場所です。
だから遊歩道の柵を乗り越えて山の中に勝手に踏み込んで、アケビを泥棒して家に持ち帰って食べていました。
しかも農家出身の両親が率先して泥棒していたってんですからタチが悪過ぎます。
アケビや山菜、きのこは取って帰ってましたが、マツタケは流石に高級過ぎて泥棒するのも気が引けたのか、これはマツタケだよと説明してそのままやり過ごしていました。あれは何で取らなかったのか不思議です。収穫できるサイズではなく小さかったですから取らなかっただけかもしれません。しかも、根こそぎ盗ろうとしたら引っ叩かれて怒られました。来年盗れなくなるだろうといって・・・・多分、箕面から岡山に転校しなければずっと毎年山菜やアケビキノコを採りに毎年恒例で延々とひょっとしたら父の定年までやっていたのかもしれません。両親の中では箕面で腰を据えて生活するつもりだったようですからね。

確かに適当に自然が残り、江東区や東住吉みたいに空気は汚くないし、淀川水系を使っていたけど、十分自前の水系箕面川の水系を使ってもあの当時であればまかなえたし水質も当時の割にはかなりよかったですからね。
当時大きな河川の大半は溺れたら危ないという理由ではなく、誤って水を飲んだら死んでしまうという水質の悪さから、川に入るなって言われていたんです。でも箕面川に関しては水流の流れが早過ぎるから入るな溺れて死ぬからダメと言われていただけで、川の水は平気で飲んでましたが腹を壊す事もありませんでした。

 

箕面の山は散歩コースでよく犬を連れて散歩に行きました。
犬と猿との戦いなんかもしょっちゅうあり、猿もちゃんと人を見て襲ってましたから、家族の中でも母か私だけを狙って襲ってきました。だから母か私が犬の紐を持っていて、襲われたら紐を外して犬に猿を襲わせていました。犬も猿を襲えばジャーキーという俸禄を得ることが出来るし、散歩を延長してもらえるという知行地安堵が約束されていたので、猿に突進していきました。ある日の事、何度も猿に襲撃されて頭にきた私がわざとビニール袋に可成りの砂を入れて軽そうなふりをして実は相当に重たい砂の入ったビニール袋を振り回しながら散歩をして猿をおびき寄せました。まんまと罠にはまり、私からビニール袋を強奪したまではよかったですが、所詮、猿。食料でもない砂に気づかないで、必死に重い砂を持って逃げようとしているところを私からはソフトボールをまともに投げつけられ、犬にはまともに噛みつかれて、強欲にしがみついていた袋から手を離して遁走しようとしたものの、犬が離れない為、犬諸共滝つぼへと転落して水没しました。
暫く両者が浮かんでこないのでヤバイ犬を殺したかと思ったのですが、暫くすると両方浮かんできて両者違う方向に岸辺を捜して泳ぎ着きました。必死になって岸辺を捜して泳いでいる猿めがけて容赦なくソフトボールを投げ続ける私はやはりどこまでも冷徹漢でした。いや、冷徹韓といった方がいいでしょうかね。弱り切っている相手を徹底的にいたぶろうとするなんてまさに漢か韓ですね。ノーコンの私では至近弾がいいところで命中弾は結局与えられませんでした。それから何回かこの作戦を用いたのですが、今度は罠にハマって呉れません。猿同士で情報が伝わっていたのでしょうか。

(陣取りゲーム)
あとは箕面の山に登って山の荒蕪地でよく陣取りゲームを友達としていました。陣取りゲームが出来るのは山の荒蕪地では通年できますけど、田圃などでやるとなると農閑期の秋の終わりから冬の間だけです。それも当時は全く気付いていませんでしたが、当時の農家が近所の子供たちのためにとわざわざ作付けするものがあったのにかかわらずそれをしなかったのです。おかげで陣取りゲームはその地域のちょっとした冬の恒例行事になりました。毎日そこで戦われるというわけじゃないけど、ほとんど誰かが田圃の全部ではないにしても一部を陣取りゲームで利用して晴れている日は遊んでいました。農地があるとはいえ協力してくれる農家は少ないですから、陣取りゲームの場所取りは結構被ったりすると大変でした。それで被ってしまった方はしょうがなしに箕面の山を登って、山の荒蕪地で陣取りゲームをしていたのです。
或いは芦原池という池が近所にあったのでその池の周囲で陣取りゲームをしていました。


山の陣取りゲームの場合は攻めてと守り手を分けて攻めては山を登る労力分だけ仲間を守りての3倍まで増やしていいというルールにしてその代わりに時間制限を設けてそれまでに攻略できなければ負け、攻略出来たら勝ちという風にしていました。

山の場合、遊ぶ場所が決まっていたから守り手が守りやすいように色々細工を作ったりしていたので、本当の山城の様に地形を利用して掘りを掘ったりしていました。でもまあ子供がやる細工でしたから大局に影響を与えるほどに効果的な構造物まではつくれませんでしたけどね。

 

まだまだ田んぼがたくさん残っていた時代でしたので、冬場は人様の田んぼで陣取りゲームみたいなことをしてよく遊んでいました。小2の時に教室で籠城戦をやらかして、采配を振るったのが忘れられず、冬場の田んぼで陣取りゲームなんかはほんとよくやってました。
二つのチームに分かれて本丸に建てた旗を倒されたり、奪われないようにして、守りながら、相手の陣地に攻め込んでいくというものでした。田んぼの稲の切り株を引っこ抜いてこれを手りゅう弾代わりにして相手陣地に投げ込み、当たったプレーヤーは戦死。盾とか防御するものを持ち歩いても構わないというルールでやってました。また竹やりの先に怪我をしないようにぼろ布を巻いて相手を突き倒して進軍したり、結構本格的な遊びでした。兄たちの世代くらいかそのちょっと上の世代くらいからこの陣取りゲームが流行り出して、それが一挙に低学年へと広まりました。剣道の胴着が甲冑をつけているみたいで格好いいというので絶対あれは室外で使って泥だらけにしていいものではないのですが、剣道少年たちから火がついて一挙にブームになりました。剣道やってない子などは段ボールで甲冑を作ったり、ベニヤで盾を作ったりしてオリジナルな戦闘着を作っていました。

私は島津が得意とした釣り野伏せに似た戦術を使って、小集団の弱い囮部隊を繰り出して敵の主力を誘引している隙に本丸を攻略するというやり方が得意でした。

自分の采配に合わせてみんなが整然と動いて呉れるのはほんと最高に楽しかったですね。まさに一軍を預かって将兵を動かしているような感覚でたまりませんでした。

昭和は平成と違って日本人自体が本当に適当でいい加減でしたから山や池や田んぼで子供が勝手に侵入して遊ぶことに関して真剣に抵抗するところは少なかったですね。

 

今は激しく抵抗するところが多くなっていますけど、それは勝手に入ってきておきながらトラブル迄持ち込み、そのトラブルの代償を所有者や管理者に押し付ける事が増えたから激しく抵抗して入れないようにするようになったのです。以前は子供が山や池や田んぼで遊んでけがをしたと行っても山の所有者、池の所有者、田圃の所有者に文句を言う馬鹿は折らず、トラブルを起こした当事者同士で問題解決していました。

 

勝手に入ってやってる方が悪いのに、今は勝手に入れる状況を作っている所有者が悪いという責任転嫁が普通となってしまったために所有権が厳格化され所有者は所有物に必要以上の経費を割いて一切の侵入物が入らないようしなければならない状況に追い込まれてしまいました。

 

2007~8年くらいに30年ぶりくらいに箕面の山や池や川を訪問した時にガチガチにフェンスで無粋に囲まれた昔の遊び場を見ると時代の流れと日本人の特亜化を見ているようで不愉快な気分になりました。日本人が特亜のような責任転嫁をして話をすり替えて人様に迷惑かけても自分さえよければどうでもいいという無責任動物に成り下がってしまったから所有者や管理者が一切の隙なく所有或いは管理権が発生する場所を頑なに守らないといけなくなったんでしょうね。

(滝山学校)
自然がなにせ多く残っている場所だったので山河でよく遊びました。
小3の時にそれで夏か冬か忘れましたが、大きな休みの時に自由研究みたいな感じで気の合った仲間同士のコミュニテイーで探検したところを絵や図や文章にしてまとめたものを偶然何個かのグループが提出したら秋葉がそれを絶賛して呉れました。それで調子に乗った生徒たちは4年生5年生になっても同じような仲良し探検グループを編成して、探検結果などを自由研究代わりにグループ単位で報告して出していました。そのため各グループの中心人物の名をとって何とか学校というグループが沢山出来たのです。
歴史馬鹿な私は同じく歴史馬鹿の友人ばかりを集めて近所の山に縄張りを張るとしたらどういう風に縄張りを張って要害堅固な山城を作るかという馬鹿の限度を超えたマニアックな事をやってました。当然航空写真とかが必要になるんで図書館に行って航空写真の地図なんかを捜してそれを模写してこの山とこの山を使って城を作るとか相変わらず小学生がやらないようなぶっ飛んだことをやってました。
当時、プラモデルから発生したと思うのですが、ちょっとしたお城ブームの時代でもあったんです。


(常用漢字反対運動)
簡略化された旧字体ではなく現在の漢字になっている常用漢字。当用漢字が廃止され常用漢字になった事で当用で使われていた臨時の文字が常用化されるというので、繁体字つまり旧字体であれば支那とも筆談が出来るのにこれでは漢字文化圏の日本、台湾、支那の三国間で筆談でのやり取りが出来なくなるし、表意文字である漢字の意義を失うと反対運動をしている人がいました。どうして私がこの人と知り合ったのかはわからないのですが、兎に角知り合い、それで共鳴し、常用漢字に反対し、旧字体への復活の陳情書をこの人と一緒に誰か議員さんのところだったかお役所だったか忘れたけど届けに行ったことがあります。小4か小5の時の話です。
やっぱり完全にずれているんですよね。小学生でやっと二桁の年齢になったかくらいの人間がこんな政治活動していること自体がかなりぶっ飛んでいます。しかも子供が好む破壊と混乱ではなく秩序と安寧つまり保守的な考え方ということも子供ではありえない変人ぶりでした。

(口裂け女)
口裂け女が話題になっていた時期にミツクチの知的障害者女性が小学校周辺をたまたま徘徊していたため、口裂け女が実在していたと大騒動になり、心無い子供たちがミツクチの障害者女性宅や彼女が通所していた施設などに押しかけて見物したため結局この女性は転居せざるを得なくなったという最低な事件がありました。校長も朝礼で激怒して怒っていましたが、当然でしょう。
私は自分が左手首の痣や、外斜視などの見た目の差別で虐められていたためにこういう物見遊山が大嫌いで、率先して調子に乗ってそういうことをしようぜ、行こうぜと言っている連中と自分の事を馬鹿にされているわけじゃないのに大喧嘩したこともありました。
子供は鶏と一緒で本当に残酷です。目に付いたらそのことだけしか見ていませんから、異物が目に付くとそればかりつつくんです。まるで鶏が怪我した仲間の鶏をつつきまくったり、体調不良の鶏をつつきまわって殺したりするのと一緒です。

次回は一学年上ですが的場との抗争について話をしていきます。