国家と私の関係 | やすのど素人的ブログ

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日本のいいところを子供たちに残したいですね。

 

9月に自民党の総裁選が開かれるそうで、石破茂さんが立候補し、安倍総理との一騎打ちになる模様らしい。

 

朝日新聞の記事によると 

 

 石破氏は会見で、「政治・行政の信頼回復100日プラン」をつくり、年内に実行すると表明。①謙虚で正直で国民の思いに近い政治②透明・公平・公正な政治、行政③課題に正面から挑み決断する政治、の3点を「取り戻す」と訴えた。

 憲法改正については「優先順位を定めるべきだ」とし、参院選挙区の合区解消や緊急事態条項の創設の必要性を指摘。9条には「国民の深い理解が必要だ」との言及にとどめた。安倍首相の経済政策「アベノミクス」の成果は認めつつ、世代間や地域間で広がる格差是正の必要性を強調した。

 

 

謙虚、正直、透明、公平、公正な政治を「取り戻す」らしい。

 

いやはや、そういう、いわば「当たり前」な事を、わざわざ、「取り戻さなければ」ならない状況に今、我々日本人は置かれているようだ。

 

私は自民党員ではないので、あくまでも、この総裁選を傍観するしかない立場だが、多くの自民党員の方々は、謙虚、正直、透明、公平、公正な政治を、取り戻すべきだと思っているのだろうか?それとも、そのようなモノなど、どうでもいい、と思っているのだろうか?

 

非常に楽しみである。

 

 

さて、つい最近、小林よしのりさん達のサイト「ゴー宣道場」を見ていたら、小林よしのりさんがこう書かれていた。

https://www.gosen-dojo.com/blog/18948/

 

「統治者が市民に向かって『お前の死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死なねばならぬ。

なぜなら、この条件によってのみ彼は今日まで安全に生きてきたのであり、また彼の生命はたんに自然の恵みだけではもはやなく、国家からの条件付きの贈物なのだから」

 

ルソーの「社会契約論」の有名な一節である。
近代民主主義が誕生する原動力となったのが、ルソーの「社会契約論」である。

 

国民国家になるときは、軍隊を持ち、徴兵制を敷いた。

それが民主主義の基本であり、自由、平等、同朋愛の基盤ではないか。

 

 

私たち、日本人は、今の自由、平等、そして民主主義は、天から与えられた贈り物か何かだと勘違いしている。だから、何もしなくても、ほったらかしていても、天から与えられたまま、未来永劫、変わらないと勘違いしている。

 

どうやら違うようだ。

 

石破さんが、わざわざ「取り戻さ」なければならないと語ったように、今や、透明、公平、公正な政治は失われている。

 

言っておくが、我々は、統治者が「お前が死ぬことが国家の役に立つ」と言えば、死なねばならぬ。そう決められてしまえば、そう道筋を作られてしまえば、逆らえるものではない。どれだけイヤでも死なねばならぬ。国家から、社会から、地域から、周り近所から、さらには親類縁者から、我々は手を引かれ、死なねばならない。

 

それこそが民主主義の基盤である。

 

今の日本において、そんな事が起こるわけないだろ、と言いたい気持ちはよく分かる。この平和な国、日本、戦争を放棄した国、日本、そんな事態が起こりうるわけがない、と。

 

では、明日、北朝鮮がミサイルを撃ってきたら?中国が尖閣に侵攻してきたら、アメリカがまたもや中東で何かをやらかし、日本にも手を貸せよ、と恫喝してきたら?

 

今や、国際社会は混迷を極めており、将来の事など予測不可能だ。この先、どうなるかなど誰にも分らない。

 

そう考えたとき、こう考えないだろうか?どうせなら、自分が死ぬに値すると感じられる国家の命令で死にたいものだ、と。

 

 

私は、将来、混迷を極める世界において、絶対に透明、公正、公平な政治を求めようとは思わない。なんとか国家を破滅から遠ざける、かじ取りに集中して欲しいと思う。

 

しかし、今、この平時においてすら透明、公正、公平な政治を行えないような統治者の下で死ぬのだけは勘弁して欲しい。

 

国家の公文書を改ざんさせ、政治家や官僚を人事権などを駆使した恐怖で支配し、やることと言えば、己や一部の者達の私益を得る事ばかり。

 

やることなす事が全て、薄汚い。

 

このような奴らに手を引かれ、「お前が死ぬことが国家に役立つのだ」などと、誰が信じられるのか。

 

我々は、統治者が語る「国家」の意味を考えねばならない。

 

「お前が言う「国家」とは何だ!」

 

いつも我々は、そう問いかけ続けなければならない。