大宰府めぐり4 筑前国分寺跡と水城跡 | 佐賀ンもん

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佐賀と九州のこと。

昨日のブログで、観世音寺に戻る前に寄った神社を、紹介し忘れていました。
とりあえずそちらから。
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こちらは観世音寺のすぐ北側にある、日吉神社です。観世音寺の鎮守として、比叡山の日吉大社からの勧請した神社です。
豊臣秀吉の博多遠征の際、秀吉自身が日吉大社と縁がある人だからでしょうか、この地に陣を張っていたそうです。


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せっかく大宰府政庁まで戻って来ましたので、お堀の様子を眺めながら歩きました。画面の右側に、ちらっとコシアキトンボが飛んできました。
この日はトンボにも会いたいなと思っていましたが、このコシアキトンボと森の中でハグロトンボを見ただけでした。


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ちょっと見にくいですが、水面にコシアキトンボの姿がうつりこんだ様子を。
この日はあまり粘らなかったので(あとカメラの調整が慣れていなかったのもあって)、これだけ撮って次に進みます。



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本来の目的地に行くまで、また寄り道してしまいました。こちらは坂本八幡神社と呼ばれている場所です。
元々は天台宗のお寺で、境内に八幡神社を祀ったのち、戦国時代に寺院が廃れてしまったとあります。
今回の記事の最初に日吉神社を載せましたが、そこからほど近い場所に坂本という地名。
どうやら大宰府は、平安時代以降比叡山との関わりが深かったのでしょうか。


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その坂本八幡神社の境内に、万葉歌碑を見つけました。

我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (『万葉集』8-1541)
読み人は大伴旅人。
大宰府に赴任して間もなく、一緒に来た妻の大伴郎女を病気で亡くしています。男鹿が自宅近くで求婚の鳴き声を聞いて、寂しい思いをつのらせていたのでしょうね。

どうやら近くが、大伴旅人の邸宅があった場所のようですね。


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到着したのは、筑前国分寺の瓦窯跡の地です。
国分寺の詔によって、各国ごとに国分寺と国分尼寺を建立することが義務付けられましたが、ここはその国分寺の瓦を焼く窯があった場所です。
発掘調査で見つかった瓦跡は、保存のために埋め戻されています。


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ここで焼いた瓦は、老司式と呼ばれる形式のもので、観世音寺の発掘で発見された瓦も老司式でした。
この老司式の瓦は、飛鳥の川原寺の川原寺式と呼ばれる瓦と同じ系統のものと言われています。
近いうちに、老司式の元祖福岡市老司の窯跡にも行ってみたいとおもいます。


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どうやら窯跡は複数あったそうで、奥に見える池の下にもあるらしいです。
この池は江戸時代に造られた堤によってできたもので、それ以降は一部の窯跡は池のそこに沈んでいます。



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そこからしばらく歩くと、筑前国分寺跡に着きました。写真は講堂が建っていたと思われる場所で、残されていた礎石はかなり少ないようです。


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奥に見えるのが、塔跡です。国分寺は例外なく七重塔を立てる必要がありましたので、七重塔跡ですね。
なお現在まで残る七重塔はひとつもありません。


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塔跡にはたくさんの礎石が残されていました。中央には心柱を支える心礎もありました。
七重塔はいったいどのくらいの高さだったのでしょうか。礎石の数などを見ると、かなり大きそうではありますが、各地の七重塔は高すぎて倒壊することが多かったと聞きます。


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こちらは現在の筑前国分寺。旧国分寺の金堂跡に立てられているそうです。
旧金堂あったと思われる盧舎那仏坐像は、やはり失われてしまったのでしょうか。


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さて、筑前国分寺跡のすぐとなりにある神社で、もう一つ万葉歌碑を見つけました。

大野山 霧立ちわたる わが嘆く おきその風に 霧立ちわたる (『万葉集』5-799)

山上憶良が、妻をなくした大伴旅人におくった歌だそうです。大野山は僕が登ろうとした四王寺山の旧名です。そういえば、四王寺山は霧に煙っていることが多いように思いました。


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さらにそこからずっと歩いた先に、最後の目的地水城が見えています。
写真では細長い森のように見えますが、元々は防護のための大きな堤で、山と山を結ぶように1.2kmほどにわたって造られた人工物です。


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小高い見晴らし台から見てみました。遠くまで続いている様子はわかりにくいですが、ここを起点に細長い森がずーっと続いています。
下に見える道路は、当時から設けられていた関のあとで、有事の際にはここを閉じて防護する予定だったようです。


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見晴台にあった説明板によると、水城の両側には堀が設けてあり、そのいちばん低いところから高さ9mもの防護壁を造ったようです。
それらと大野山などを結んで、自然の地形を生かした城郭の構造を作り出し、大宰府を守っていたようです。


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水城の近くから眺めてみました。当時の高さを考えると、自然と堤の高さは低くなり、その代わりにその部分だけに木が覆い茂って、水城の部分を形作っているようです。


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水城の大宰府側は、幾つかの広い段が設けてあり、防護側に有利な地形を作っているようです。これだけ防備に気を配っていたことから、いかに大宰府の地が重要であったかが忍ばれます。


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その水城の芝生の間から、ネジバナがたくさん顔をだしていました。

これで最初の大宰府めぐりは終わりです。
今回めぐった場所は、菅原道真公以前の古い大宰府の顔を持っています。まだ見て回っていない箇所もたくさんありますが、こちら以外にも天満宮を中心とした新しい顔の大宰府も大変広く、面白い場所が沢山あります。
次は天気のよさそうな日に、大野城などを回った後に、天満宮周辺を歩いてみたいと思います。