お茶と養蚕と山村野菜の「食行身禄の里」
わたしが暮らしている集落は、富士講中興の祖 食行身禄の生誕地です。そして伊勢國一志郡川上村は江戸時代には川上茶と云われた上質な御茶の産地でした。
いまでも、その伝統を継いで集落には茶園が多いのですが・・・
残念なことに、高齢化で茶園の管理が困難になった家が増えてきたこと、そして、お盆やお正月には帰って見えられるものの留守にしている御宅もあることなどや、御茶の生産も苦労が多く実入りが少ないことになって久しいので手入れされずに枝が伸び放題になっている茶畑が目立つようになってきています。
上・下、この二つの写真は、同じ茶園を撮ったものです。
手前の草むらは、ただ今、桑園にするために開墾中の遊休農地で、その奥に手入れされた茶園と、放置された茶の木の林が見えます。
下の写真は、手入れされた茶園と、放置された茶園の境界の様子です。
茶園の管理機(農機)を購入したり、施肥をしたり、管理の手間と人手、加工賃などの諸々のコストを差し引けば、そんなに利益は出ないのだそうですが・・・でも、もったいない。
多くの茶園は勾配がある土地につくられているので、手入れや刈り取り(収穫)の作業も大変なのですけれど、・・・やっぱり、伸び放題に放置された茶の木の林の存在が、なんとなく集落の雰囲気を寂しい感じにします。
こういうことでは、「集落を維持するモチベーション」が低下しそうな気にもなりますし、高齢化と共に進行する耕作の低下を象徴するところもあるので、「なんとかしたい。」と考える有志の人達によって、「放置された茶園の刈り取りが始まりました。」
この地域では、鹿・サル・猪などの獣害が深刻です。
このような人の背丈以上に伸びた茶の木の林が、人家や耕作地の近辺に在ると、そこが野生動物の隠れ家になって、作物が荒らされやすくなります。
伸び放題に放置された茶の木の林を無くす事は、そのような獣害対策の意味もあるのです。
そして、荒れた集落の景観にならないように、手入れされた耕作地や手入れされた集落の景観を保ち続けることには、「この集落で生まれ育った人々が、帰ってきても暮らせる状態を保ち続けることでもあるのです。」
だって、幾らふるさとでも、家も農地の荒れてしまった場所に足を運ぼうとは思わないでしょう。
この土地で生まれた身禄さんの富士講から発展した不二道には、河川の修復や道普請などの土木工事に参加する相互扶助の「土持(つちもち)」という仕組みがありました。
そのような精神で「つくらなくなった茶園を、持ち主さんが作るときまで荒らさないように管理する」というような主旨で放置された茶の伐採プロジェクトが有志によって始まりました。
これも、限界集落化してゆくといわれる集落に暮らす立場で、集落の限界集落化に抗う手立てです。
茶園の持ち主さんが主旨に御賛同くださったところから、また茶園として使えるように低く刈り揃えてゆきます。
プロジェクトを行うにあたって、身禄さんの生誕地である伊勢國一志郡川上村(現:三重県津市美杉町川上)のことを特に、「食行身禄の里」と呼ぶことにしました。
お茶と養蚕と山村野菜の「食行身禄の里」・・・これからは、そう呼びます。
わたしどもも、このプロジェクトに参加しています。
再生茶園で収穫したお茶や、集落の皆さんが作った自家用茶なども、「食行身禄の里」のお茶として、「山荘生活ぎゃらりぃー」で販売してゆこうと考えています。





