聴くということばには、
“きき酒”というような用例があるように、“味わう”とか、
“自分の身体の中に立ち昇る情感(感覚)を見つめる”というような、
なにやら、自己の身体感覚に問いかけるようなところがあるように想います。
同じものを、見ていても、聴いていても、
そこから汲み取れるものは、それぞれ違うということがありますよね。
たとえば、この奄美の糸繰り節なんかも、
わたしと、地元の人とでは、こみ上げて来るものが違うでしょう。
糸繰り節には、元ちとせさんのアルバム「しま・きょら・うむい」に収録されているものや、その他の方のRECなど、幾つかのものがありますが、・・・。
わたしが気に入っている滔々と流れる少し古風な糸繰り節の音源が採取されたのは喜界島で、昭和42~52年頃に喜界町川嶺の田畑イシさんの“唄あそび”を録音したものだということです。
この“唄あそび”のような、本土ではすでに喪失している民俗風土に彩られた南島の織物に、織物の織り手は、とても“まぶしい”ものを感じるのです。
それは、本土に生まれた者にとっては経験し難い、暮らしと織物を織ることが分離していない営みへの一種の憧れでしょうか。少なくとも、そのように感じられる要素が、今も南島の織物には宿っているのでしょう。
しかし、そのような南島の織物を織ろうと思い立っても、
その風土の中で育っていない者が、
そう簡単に織り出せるものとは思いません。
南島の“まぶしい織物”の技法を模倣しても、
それは似て非なるものになるように、・・・
自分のものではない“まぶしさ”は、真夏の逃げ水のようなもの。
けれども、ただ、見聴きした経験より立ち昇る情感(感覚)から、
自分の器のうちに醸し出される小さな響きに耳を澄ませて聴き入れば、
そこから何かが生まれてくるかも知れません。
また願わくば、
醸し出すそのような小さな響きが宿り得る器で自分がある事です。
しかし、その小さな響きは、他者には無縁の出来事だから、
人に頼っても、それは伝わらないことも十分経験しました。
自分でゆっくり歩む努力の方が“手のうちに残るもの”が多く豊かです。
だから、時間も手間もかかりますが、
素材の「絲」を人に任せず、自分の手で絲をひき、糸を紡ぎ、
ただただ、自分の織物を織るのです。
つまりは、・・・。
ひとり静かに自分という器のうちに、
なにが宿っているのかを見極める作業ですね。
