バッハにたくさん触れるというのは、論語を読んでいる時、またはブッダの言葉や聖書を読み込んでいることによく似ている気がする。


とっくにこの世には存在しない人たちだが、その人達の遺したものに触れ続けることで、その人の弟子となった気持ちになっていく。


センセイならこう考えるのではないか、センセイならこう諭されるのではないか。


これが宗教の持つ一側面だろう。


僕はレナード・バーンスタインがテレビに出始めた初期の1950年代の映像から、晩年の1990年の映像までを多数所有し何度も見返しているうちに、きっとバーンスタインセンセイならこう言うのではないかなど、烏滸がましくも表情まで思い浮かべながら感じる時がある。


ただ渋沢栄一センセイも言う通り論語だけではダメで、算盤も必要なのだ。


現代音楽、レパートリーの開拓、マネジメント、後進や聴衆の育成、エンターテイメント。

「算盤」に割り当てられそうな単語は多い。


そして「論語」の中にも、自分にとってはバッハ、バーンスタインのような音楽家から、音楽史、音楽理論はもちろん、論語そのものをはじめとする古典、古典文学、そして広義のリベラルアーツなど、常に触れていたい事柄が多く含まれるだろう。


人生は短い。