秋の夜長に 離婚した話 | bachoともありのブログ

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『マネージャーって幸せそうにみえますよね。平日仕事して土日になったら友達と色んなとこいって、好きなバンドして、ストレスなんて感じたことないでしょ??』

そう笑って声をかけられたのは、店(クラブ)で働く女の子だった。髪をアップに束ね、新調Dayということもあり、綺麗な赤のドレスで着飾っていた。

厨房の中。読んでいた小説を閉じ、『そんなことないよ。僕なんて離婚して家に帰っても一人寂しい生活だよw』
とはにかんで答えると『私も離婚してるしな!!それでもマネージャーは幸せそう』と香水の匂いを残してお客様の待つカウンターへ接客しにいった。

何かつらいことでもあったのか??そんなことも思ったけれど、ワザワザ聞いてあげれるほど優しい性格に育たず42才、『聞くのめんどくせーな』ニアリーイコール『聞かないであげる優しさだ』と脳内完結し、店の男の子に同伴の指示だけだして閉じた小説の続きを読みはじめた。


僕は二年前に離婚した。
これがブログで書けなかった。どうしても書けなかった。
時間が経ち、何気ない一コマで『幸せそう』と他人が判断してくれたことで自信がつき書いてみようかと思った。

それから理由がもう一つ。
僕が離婚したいと告げられ、前の妻と話し合いをする中で自分の結婚生活や考えを振り返って凹んでいた時、同じように彼氏と別れた心境ブログを更新していたNATURE DANGER GANGのユキちゃんのブログを読んで心を耐えてた経験からである。ありがとう。
誰かの何かポジティブかきっかけになればと思う。
あとは自分の為に。
あと数多の秋の夜長を過ごす暇人のためにw



三年前の秋頃だったと思う。
コロナも収束しかけの時期。仕事もなく部屋のソファーに一人寝転び、お腹も減ったし妻が仕事前に作ってくれたホットケーキを食べようと起き上がり、最近憮然とし、伏し目がちな妻にいらだっていた。
心配するのではなく、確かにいらだっていた。
『なんなんあいつ。仕事帰ってきたら説教だな』そんなことを平気で思い、定位置となったソファーに寝転び直し、何度目かの水曜どうでしょうをみていたら寝落ちしてた。


起きた頃には夕方になっていて、妻が僕の食べ終えた皿の洗い物をしていた。昨日と同じ伏し目がちな妻に『おかえり』『ただいま』と軽く挨拶をし、『ちょっと座ってくれる??』と促され、食べ終えた皿を洗い場まで持っていかなかった事を注意されると思って身構えた。
女の子の日なのかな??機嫌悪いなぁぐらいにしか思ってなかった。


ソファーに座り、ここは先制謝罪が得策だなと計算し
『ごめん、洗い場もっていってなかったな』と半笑いで謝ると『離婚してほしい』と涙を浮かべて返答された。急だった。
予測してない言葉に、僕は唖然としながらも『またまたぁーー』と軽く肘で妻にツッコミをいれるお粗末関西人。

勿論妻は笑わず、『離婚してほしい』ともう一度お願いしてきた。『えっマジで??』そう問い質すと妻は、今度は涙を流しながら『うん。マジで』と答えた。
秋になっても仕舞わなかった扇風機の音が部屋を支配していた。



僕と妻は仲がよかった。
これは自他共に認める所でどの友達に会っても『仲良いよね』と言ってもらえたし、お互いよく笑った。自慢の妻だった。
おかんからはよく『ともくんとこが一番仲良いよね』と二人の妹夫婦の所と比較して、そう評価していた。
『そんなことないよ~』と謙遜せず『そんなことある』と自信を持って思っていたし、友達夫婦の所に遊びに行って夕食を頂き、皿洗いをしている友達をみて『情けないなぁ尻にひかれて』とさえおもっていた。

子供は出来なかったが40手前にして『人生あがった』とおもっていた。
家のローンもないし、好きなバンドも目一杯してる。好きなところで働き稼がせてもらい、好きな人と生活している。完璧。
二人でいるのが心地よかったし、仕事かバンドが落ち着いたら海外で小さな家でも借りて生活なんてしてみたいなぁ。妻は英語ができないし僕が頑張らなきゃな。そんなことを本気でおもっていた。

でも本当は、妻に好きな事をさせてもらってた。妻に生活を心地よくさせてもらってただけなんだと気付くには『離婚してください』と妻に伝えられてから半年ほどかかった。


妻の宣言からの半年は妻にとっては地獄だったとおもう。
『離婚』という文字が僕の辞書にはなく、『どこかダメだなと所があれば治す』と駄々をこね、『考えられない』と怒り、Something ELseよろしく『ギブミィアチャンス ギブミィアチャンス』と何度も懇願した。
妻は全ての言葉を黙って受け止めてはくれたが首を縦に頷く事はなかった。


『自分が離婚する』と言うことが受け止めれなかった。
存在は知ってる。離婚した友人もいる。なにもおもわない。
だけど自分が離婚することがどうしても理解できなかった。辞書になかった。許せなかった。
『恥』だと思っていたし『不完全な人』というレッテルが貼られると思った。怖かった。

そんな事を僕が思うだろう、と見透かした妻は『別居』という判断をしてくれた。思えば僕が『離婚』を理解する時間を与えてくれたのだ。

そんなことともいざしらず、『離婚』から『別居』になったことで、事は漸進してると勘違いした。
助かった。首の皮1枚つながった~。一人になったら寂しくなって帰ってくるだろう。そんな思春期中学生しか思いつかない事を39才の冬に思い『そういえば、別居したこともあったよね~』なんて笑える日が来るんだろうなとマダ本気で信じていた。



関東のLIVEが3日間あって、その間に妻が引っ越しすることを決め、『付いてこなくて大丈夫』というわれたが、少しでもポイントが欲しかった僕はニトリやDAISOに付いていき妻の新生活の準備を手伝った。変わった自分を見せたかったのだ。とんだ似非行動。『こっちの方が安いよ』と伝える馬鹿亭主w妻は能面な顔をしながら高い方のラックを担いでレジに並んでたw


関東の3日間LIVEを終え、帰った部屋には高いから買いたくない!!と争った乾燥機付きドラム型洗濯機と寝室のベットが宣言道理なくなっていた。
寝室はガランとしていて僕がdiyで作った妻用の化粧机が主人がいない事に気付かず、呑気に存在していた。

僕がプレゼントしたネックレスや時計もそこに飾ったままで、いらなくなったのだなと思った。
それを見るのが怖すぎて半年は開かずの間となり、禁止されていたリビングでのソファーで寝起きすることになった。誰か禁止してくれと思った。


メンバーや友人に『別居してる』と恐る恐る宣言していった。酔いにまかせて言った事もあったし、家族の話になったついでに言ったり、自分の状況を話してみて、自分がどうおもわれるのかを探るように、出来るだけ明るく宣言した。
一様に『どうして??』と当然質問され、『自分がワガママだったんです』と半笑いで自分のワガママ生活を面白おかしく答えた。笑ってくれると思ったが大いにスベった。
これは『面白話』ではなく『酷い話』なんだとその時ようやく気付けた。
そんな一面が僕に在ることを近い友人はみんな感じていたし、それを認めながら付き合ってくれていた。

『◯◯ちゃん(妻)は大変だねぇ』友人夫婦の妻や、おかんがよく妻にいっていた。妻は笑って『本当にw』と答えてくれてたが、その言葉を聞いて僕は一笑いとれてよかったな。ぐらいにしかおもってなかった。
それが今となっては恥ずかしい。
言えば僕は『妻に甘えきったチャイルド大人』になっていた。


『妻に甘えきったチャイルド大人』という新語の真意は生活に飽きたらず、精神の方でもそうだった。むしろ精神の方がヒドイ。
妻が自分と同じ感覚なんだと錯覚していたのだから。

僕が嫌なことは嫌。僕が好きなことは好き。僕が許せないことは許せない。その怒りや喜びの程度さえ同じなのだと錯覚していたし強要していた。
大学のテストみたい。わからないことがわからなかった。
何故僕と同じように怒らないのだろう??
何故僕と同じように喜べないのだろう??
友達や友人には一切見せず、唯一妻にしか見せない一面がたしかにあった。

今ならわかる。
一緒に生活し、一緒に添い遂げたいなら、相手の嫌なこと、好きなこと、許せないこと、全てを先ずは認めてあげなきゃならないし、それを許容できるキャパシティを自分で持っておかなきゃならないこと。
キャパシティオーバーなら考えの転換が必要なこと。
その考えが『思いやり』と言葉を変えたり、土台には『愛』があるということを。

友人は尻にひかれてるのではなかったのだな。
愛の在る思いやりの行動をしていたのである。

僕はその逆を地でいった。
結婚生活後半は『考えられへん!!』とキム兄よろしく、よく言った。いやっ、考えられへんのおまえやから!!と殴ってやりたい。ダルいのが『考えられへん!!』といえる事が面白い事なんだとおもっていたことだ。

元々妻と考え方や好き嫌いが似てたことや、妻が譲ってくれる思いやりの在る人間だったことを良いことに、僕は年を取りながらも子供になっていった。
精神のベンジャミンバトン。主演は僕。結末は一人である。決まってる。そんなの決まってる。

お金に困ることはお互い働いていたしなかった。
暇ができれば国内に及ばず、海外にも旅行にいった。
お互いの親とも健全な関係を保っていたし、お互いの両親が好きだった。よく笑った。
原因は僕の性格だった。
それに気付くのに半年かかった。僕は完全に1人になった。

https://crabworks.jp/news/20230313/


続きはまた明日。