終戦記念日に、春日大社境内飛火野・高円山で行われる、戦没者慰霊と世界平和を祈る大文字送り火を目指して、奈良に行きました。
(結局は、東大寺の灯篭を見に行きました)
交通メディアの発達によって、遠い世界に足を運べるようになって、
想像力以上に、どれだけそこへ訪れたかということがはかられています。
お金と時間はちょっとかかったけれども、
精神的には、決してたいしたもの懸けてはいません。
今回奈良に行った足は、非常に軽いものでした。散歩です。
8月上旬はちらほら、努力を怠らない才能ある人たちに会って話して、楽しかった。
友達を引き連れて、宮城の被災地に行く計画も立てています。
でも正直、分からなくなっていました。
誰かのために、何もしてあげられない。
恥ずかしい、逃げたい、申し訳ない。
自分の身の回りのことにさえ責任も持てていない私が、
平和を祈るという、おそらく表面的な理由によって、こういう行動を取る。
今恐れを知らない私は、頭で考えて感情を作り上げる。
古き時代へのロマンに浸ったつもり、戦禍の悲しみに心痛ませたつもりなのかも知れない。
「サカモトが反原発と言っているから正しい、私も賛成!デモに参加しよう」
だなんて、政治家に任せきりの政治と何ら変わりません。
見えないものに対する、恐れを知らないのです。
それではきっと息は続かず、綻びる。
本当の恐れを知っているなら、例えば、家族だけを愛して離れない、それだけでいい。
まぁ、こうやって文章におこすと、すごく大袈裟に聞こえて、
病んでいると思われるかも知れませんが、それほどでもありません。
意識の奥を掘り起こせばこんな感じです。
それでも、なぜ奈良に行ったのかと言えば、
短絡的なプロセスだからこそ、体が動くのです。
だから、外に出る。
外に出る。
外に出たい。
大切なことが目の前にあるというのは知っている“つもり”だけど、
飛躍した時にこそよく見えたり聞こえたり、感じる。
自分の良いところだって知る。
モノの繋がりを覚えて感謝出来ます。
春日大社の池に一匹取り残され鳴いてた子鹿、愛おしかったです。
その想いが上っ面の偽物であったとしても、自分を主体としたプロセスを経て積み重ねることで、生きていると実感が欲しいのです。