存在し得ぬ冀望の世界で矛盾を超えたその情念 | わたしとあなたと、あなたとエッセイ。

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みなさまからお題(essay1:テーマ、essay2:写真)をいただき、そのお題でエッセイを書いております。
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自分の所有物を通じて、自らを俯瞰しようと試みるエッセイです。
● 400 words diaries
400字の日記を365日間、書きました。

僕らが、何かを決める時には、必ずこいつが絡んでくる。

 

「これは価値のあるものなのだろうか。」

「これをやることに価値はあるのか。」

 

きっと、僕らが、常に求め続けているものの一つに「価値」というものがある。

この「価値」というのは一体何なんだろうか。

なんだか、考えれば考えるほど、得体の知れないものに思えてきて、いつもそこで思考を止めてしまうわけだが、やっぱり、そのどこかつかみどころのない「価値」というものに思いを馳せてしまう。

 

まず、前提として、僕らは絶対的に価値を求めているということ。

価値のないものはいらないし、価値のないことはしたくない。

そして、価値のない人間にはなりたくない。

価値に関して言えば、価値があるかないかの二択ではないだろうか。

もちろんその程度に違いはあれど、自分の意識下にあるものはどっちかに分類される。

意識下にないものについては、それは自分にとって存在していないのと同じわけだから。

 

では、その「価値」とは一体なんなのか。

日本語の文章で考えれば「意味」というようにも置き換えられると思う。

 

「これは意味のあるものなのだろうか。」

「これをやることに意味はあるのか。」

 

きっと簡単に言えば、それは「境界線」なんだと思う。

自分にとってプラスかマイナスかを決める境界線。

だから、もちろん人によって、そのものに、そのことに見出す価値や意味は変わるし、置かれている状況によっても変わる。

雨の日の傘は役に立つが、晴れている日の傘はただの邪魔な荷物だ。

人は圧倒的に、損をしたくない生き物なのだと思う。

 

価値や意味を求めるからこそ、得てして思い通りに得られず、僕らは苦しみ、傷つき傷つけ、時に相手を落とし入れてでも得ようとしてしまう。

また、逆もしかり。価値や意味を求めるからこそ、人に優しくできたりもする。

動物としての生理的な欲求を超えた欲に基づく行動の裏には、きっとこの「価値」や「意味」というものが見え隠れしている。

 

僕の友人の言葉で、大変腹落ちした言葉がある。

 

「全ては平等に無意味で無価値なものである」

 

意味があると思うからこそ、価値があると思うからこそ、それを失うことを恐れ、また、求め続ける。

そしてその「意味」や「価値」の判断基準を設けることによって、そこに優劣が生まれる。

優劣が生まれれば、人は必然的に、優を愛で、劣を避難し、避ける。

でも、その「意味」や「価値」の判断基準も流動的なものであり、本来はあってないようなものである。

「全ては無意味で無価値」ということを前提に生きるとするならば、全てに優劣はなく、全ては平等で、中立である。

 

こうした意味や価値を求める欲が、僕らの行動の源になっていることを認識した上で、それでもそれを越えようとしていくことでしか、差別というものを減らしていく方法はないように思う。

だから、人が人である以上、この世から差別は無くならない。

それでも、「相手はどう思っているのか、どう感じているのか」ということに思いを馳せ、想像する。

それを態度で示していくことを、やめてはならない。

 

人間として生きていく上で価値を求めることをやめることができないならば、僕はそこに価値を求めたい。