前を向いて教師の言ういうことに集中できない。周りの子供を巻き込んで、おふざけの相手をさせる。テキストを持ってこないで、後ろを向いて遊んでばかりいる。何か音を立てないでいられない。

ADHDと総称される精神病理的に教室社会に溶け込めない子供がクラスに7人前後いる小学校で、元私立女子高校教師のこの老骨は、どうしていいか分からずに、毎日、怒り狂っていた。

職員室には僕の机もない、椅子もない、ロッカーもない、文房具を入れておくところもない、PCもタブレットもない。

ゴミ箱と廃紙と並んだ椅子の隙間に大きなテーブルを広げて座るだけ。

となりにいる習字の時間講師の60歳代の方は、胸のタグさえない。職員室の端っこの方で、毎週何こまかの授業をして帰るだけ。

五年生はとくにひどい。じっとしていられない生徒が5人以上いるのだ。まともな授業を考えてはいけない。そう思わせる。

すると、担任が出てきて、ゲームをしてくれという。ビンゴをして遊んでくれという。身体で覚えるから有効だと主張して、来週デモンストレーションをするから見てくれという。ビンゴをしてくれるというのだ。

こうした状況の中で、この老骨の精神の平衡を保つほぼ唯一の方法を、今日はついに見いだした。天を仰ぎ、この身を嘆くそのすぐ後に、ひらめいたのだ。お前が悪いのだ。教室社会が悪いのだ。生徒は悪くない。そう自分に言い聞かせること。

教室社会を支配する規範を、生徒に押しつけている教育委員会と校長の権力者達に、つまんないなあ、これは意味ないなあ、関心もないなあ、やっても仕方ないでしょ、と子供の病理が顔を出して、担当の教員をへこませてしまっているのが現実なのだ。子供彼等が正しい。彼等が正しい。

生徒の魂は、教室社会の規範意識の正当性をぐらつかせる。本当にまえにならえ、きおつけ、と、無垢の魂を縛り上げて有無を言わせず、一つの方向に持って行かせようとしているのが、正しいことなのだろうか。算数少人数教室と称して、ぼうだいな時間と労力と税金を使う。むしろ、嫌がる子供達の方が、正しいのではないか。

僕等の方が間違っている。数字パズルや外国習得を、習得を、押しつけてはいけないのだ。

では、その後に来るカオスには、どう対処するのか。学校という社会のひな形は、どうなっていくのか。

わからない。

でも、僕の精神安定剤は、テキストを持たないでドラムをたたくことを教えた親のいうとおりに、授業中ずっと机をたたき続ける生徒の方が正しいのだと、自分を説得すること。そう思っていればいいのだ。子供は親の指示通りに太鼓をたたくことで、自分の存在が正当化されているのだから、イヤな勉強などする必要はないのだ。

彼等が正しくて、僕等が間違っている、そう思い込むことで、この時間講師の暮らしは、精神的に少し楽になった。英語を教える必要もないし、子供は英語を習得する必要性はないのだ。

ゲームをやれというやっかいな担任のいうことにも、はいはい、と聞いて、したがっていこう。