今朝のズムサタで、原宿にいる10代の皆さんに、
戦争体験を聞いたことがあるかインタビューしていました。
みんな、おじいちゃんやひいおじいちゃんから聞いた話を
真剣な眼差しで話していました。
家族の言葉、生の声は、
教科書の中の出来事ではなく、
身近な人が経験したこととして、
自分だったらどうだろうか、とか、
自分たちの時代との違いとか、
色んなことを深く感じて、
考えるきっかけになっているようです。

大変な時代に、
おじいちゃんが頑張ってくれたこと、
生きていてくれたことに、
ありがとうと言いたい、
と話してる女の子もいました。

実は、私も中学生のときに
身内の戦争体験を聞くという課題があり、
母方の祖父から話を聞いたことがありました。

祖父が、JALの前身の大日本航空のパイロットであったこと、
海軍の要請を受けて、要人や物資を東南アジアに空輸していたことを、
この時初めて知りました。
民間人でしたが、いつ撃墜されるか分からない危険な任務。
敵機に見つからないように、
夜間、雨の日を選んで出発し、
あえて危険な雲の中を飛行していたそうです。
祖父が任務にあたる予定だったある日、
仲間から頼まれて交代したら、
その方は帰って来なかったそうです。
もし仲間の申し出がなかったら、亡くなっていたのは自分だったかもしれない。
ここにいなかったかもしれない。
亡くなると、ロッカーには赤いバツが書かれたそうで、
それが増えていくのを見るのが辛かった。
そして、毎日、今度は自分の番だ、と思っていた。
と、話してくれました。

私を産んだあと、母は入院をしなければならず、
2才くらいまで祖父母に預けられていました。
あぐらをかいたおじいちゃんの膝が私の指定席でした。
そんな私を祖父は特に可愛がってくれました。

祖父が亡くなって25年以上になります。
今だったら、もう少し、
祖父の心に寄り添えたかもしれないと思うと、
とても残念ですし、若いころの自分の不甲斐なさが悔しいです。

今思えば、祖父母はとても穏やかで寡黙でした。
ただ私が元気でいるだけで、笑顔になってくれました。
あの穏やかな佇まいは、
平和な時代に、
亡くなった仲間たちを思ってのものだったのかもしれません。

今さらですが、もっと話を聞きたかったと思います。
戦争体験だけでなく、
戦後の苦労や、戦前なぜパイロットなったのか、
祖父の人生そのものを、今、聞きたいです。

ズムサタに出ていた若者たちが、
戦争を肌で感じ、
心から今の平和に感謝している様子に
未来を感じました。
教科書は大切。
学ぶことは大切。
でもなによりも、身近な人たちの言葉と、その真面目な営みがあってこそ、
世代を超えて心に響いたのだと思います。

私が祖父から直接聞けた戦争体験はわずかですが、
いつか自分のこどもに、
自分のこどもでなくても、
甥っ子や、関わったこどもたちに、
伝えていきたいと思いました。

今朝は氏神様に今への感謝を伝え、平和を願いました。
そして、母方の祖父母のお墓は遠いのでまたの機会になってしまいますが、
父方の祖父母と父にお参りしました。