山形秋田の豪雨の被害は大変な状況です。
山形の海側、庄内地方は広い田が広がる穀倉地帯ですが、一面泥にうずまってしまいました。まだ、これからも豪雨がくるという予報があります。
どうか、これ以上大きな被害のないことを祈ります。
私も山形出身ということで、友人たちからご心配のラインなどをいただいていますが、内陸地方は大きな被害はないようです。
いつも拝読しているブロ友さんはブログの最後に毎日、新聞のコラムを載せておいでですが、昨日は町議会を見学に行ったこどもたちが、会議中ゲームをしている議員をみて、結局その議員は辞職したことが書かれていました。
そして、その前段として、山形出身の歌人斎藤茂吉の文が紹介されていました。
齊藤茂吉は山形の内陸地方の上山の出身です。
茂吉が小学生のとき、先生に引率されて庄内地方に行ったときの様子がその文にかかれていました。
上山から荘内はかなり遠い。
明治初期の小学生がどうやって行ったのだろうか、と興味をもち、ネットで探してみました。
その文の全文が「最上川」という題で、青空文庫にあり、おまけに朗読もあり、とてもほのぼのとした気持ちで聞くことができました。
小学生と訓導(教員)がなんと、山形の内陸地方から海側まで歩いて行ったのです!
そして、一泊目は最上川のほとりの百目木(どめき)に泊まった、と。
なんと懐かしい響き。
百目木は私の生家からそう遠くない。
小学生の茂吉は私の家の前を通って行ったのだ。
茂吉は明治15年生まれ、と書いてあるので、その頃はまだ祖父も生まれていなかった。大昔だねえ。
上山から百目木まで約40キロ。
荘内はもっともっともっと遠い。
今でこそ、高速が通って楽にいけるようになったが、私の子供のころでさえ、庄内地方は遠かった。
すごいなあ、昔のこども、そしてそんなことをさせる大人たち。
その百目木の宿で川魚をたっぷり食べたらしい。
私が子供のころ、百目木には川魚を食べさせる料理屋が二軒あったが、そのどちらかに泊まったのだろうか。
一軒は川魚をとる簗(やな)があって、川魚をよくいただいていた懐かしいところ。
その前を通るといつも、川魚を煮るお醤油の匂いがしたことを今も思い出される。
最上川のほとりに建っていて、景色はとてもいいのですが、そのあたり、毎年のように洪水になり、料理屋があるところも侵食されてとうとう移転してしまいました。
最上川は日本三大急流の一つ、と小学校で習ったが、今も・・・。
画像拝借
最上川。この蛇行している下のあたりが百目木。
ブロ友さんのブログで遠い子供のころの思い出がよみがえったのでした。