【親日感動秘話】ブルネイを救った伝説の日本人 | にゃんころりんのらくがき

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日本人だけは裏切らなかった・・・、世界一貧しい国、
ブルネイをたった1人で救った、とある日本人のお話
        大好き日本!【あすか】


うん、感動的な話の中にさえ汚い反日プロパガンダを当然のように混ぜるね (-.-)y-゜゜゜

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ブルネイを変えた日本人


 
photo 東南アジア・ボルネオ島の北部に位置する、ブルネイ・ダルサラーム国・通称ブルネイ。 三重県とほぼ同じ面積ながら、石油や天然ガスなど、地下資源が豊富で、これらの輸出により経済は安定。 なんと、国民の税金はほぼゼロ。 医療費も国が負担するなど、世界有数の裕福な国として知られている。
 だが…かつては、世界で最も貧しい国の一つだった。 この進化の陰には、国の経済だけでなく、人々の心まで大きく変えた一人の日本人の存在があった。photo その日本人がブルネイにやってきたのは、今から74年前のこと。 1939年、第二次世界大戦が勃発。 日本は1941年から東南アジアのアメリカ・イギリス・オランダが植民地とする島々を次々に占領。 翌年には、イギリスが支配していたブルネイに侵攻。 兵力が少なかったイギリスはすぐに撤退し、日本軍が手中に収めた。
 そしてこの国を「日本国ブルネイ県」と制定、日本の統治下においたのだ。 そのブルネイ県知事に任命されたのが…木村強(当時41歳)。 宮城県出身の木村は、県庁で商工課長などの要職を歴任。 そして1942年、旧日本陸海軍が占領地の行政を行う司政官として戦地に向かう事へ。 その最初の仕事がブルネイの県知事だったのだ。photo 木村はブルネイに到着後、まず始めに当時の国王アハマドと面会。 「日本国ブルネイ県」となった後も、日本は国王の地位は変えず、その権威はそのまま守られていた。 そして木村は国王に対して、敬意を持って接することを忘れなかった。 木村は国王にブルネイに詳しい人物を1人付けてもらえるようにお願いした。
 木村にとってブルネイは、まだ未知の国。 そのため、さまざまな知識があるブルネイ人の秘書が必要だった。 国王は木村の要求に応えるため、一人のブルネイ青年を呼び出した。 オマル・アリ・サイフディン。 まだ26歳の青年だった。photo 国を占領した日本の司政官に対して、国王たちの対応は従順だった。 だが…彼らは日本人を信用しているわけではなかった。 それまで、長らくイギリスの保護統治下にあったブルネイ。 だが、イギリス人が懸命になったのは油田開発のみ。 しかもその利益はブルネイには落ちず、国民の多くは、貧しい生活を送っていた。
 そして、当時の日本もまた、イギリス支配からの解放を謳ってはいたが、真の目的は石油。 統治のねらいが、ブルネイ近海で発見された油田の確保であることは、誰の目から見ても明らかだった。photo 秘書となったブルネイ青年オマルも、日本軍、そして木村の目的がそこにあると思っていた。 だが…木村が視察したいと言ったのは、なぜか一般的なブルネイ人が暮らす貧しい村だった。
 当時のブルネイの村は、まだほとんどがジャングルに覆われ、道路も通っていない状況だった。 ブルネイの国土の大半を占める熱帯雨林には、ゴムの木が豊かに自生していたものの、現地の人々が細々と採取しているだけだった。 天然ゴムが豊かである事に注目した木村は、軍の資金でゴムを製造する工場を設立し、多くのブルネイ人を正当な賃金で雇用。
 無論、木村の中にも石油の確保という、日本政府の狙いを遂行する意識はあった。 しかしそれ以外にも、天然ゴムが豊かであることに注目した木村は、ゴム工場で得た収益を日本軍の利益とせず、水道、通信などのインフラ整備を次々に進めていったのだ。 軍の為ではなく、現地住民の生活を向上させるために。photo とはいえ、工場設立の費用などは軍の資金。 石油以外に資金を使うことは日本政府の意向に反するとして、左遷や投獄の可能性もある。 それでも木村は信念を曲げなかった。
 さらに…木村は大きな畑を作ることにした。 自給自足の生活に慣れ、『自分と家族が食べていければ、それでいい』と考えていた人々に… お互いに協力し、大規模な農場で大量生産を行うことで、みんなで豊かになろう、そう呼びかけたのだ。
 木村はできるだけ多くの村々を周った。 ブルネイ人同士の繋がりを育むことで、ブルネイという国を豊かにすることが大切だと考えていたのだ。photo しかし、そんなある日のことだった。 木村と帯同していた杉野たちは、木村がブルネイ人を奴隷として扱わないことに不満に思い、木村にそれをぶつけた。 事実、当時、日本軍は資源採掘や食料増産のため、占領した東南アジアの国々で、過酷な労働を現地の人々に強いていた。
 だが木村はそんな杉野たちにこう言った。
「我々日本人の言動や行いが後世に笑われるようなことがあっては、決してならない。それを我々は肝に命じるべきなんだ。大事なのは今じゃない、未来だ。目先の利益を欲しがり搾取などすれば、ブルネイの人々との信頼関係は二度と築けない」
 この話が日本政府の耳に入れば、自分の身に何が起こるかわからない。 それでも、木村はやり方を変えようとはしなかった。photo オマルはいつしか、ブルネイ人の生活改善を第一に考えてくれる木村に対し、最大限の信頼を寄せていった。 そして木村はしだいに、ブルネイの多くの人々に尊敬される存在となっていった。
 さらに木村は、驚くべき行動に出た。 木村はオマルにイバン族の居住区に連れて行ってくれるように頼んだ。 ブルネイは、王家を含むマレー系の他に、様々な部族が暮らす多民族国家なのだが… 中でも、マレー人たちに最も敬遠されている部族があった。 それがイバン族。photo イバン族には、昔から“首狩り”の風習があり、マレー人と殺し合いをしてきた歴史のある、野蛮な部族として知られていた。 それでも、木村はブルネイをさらに発展させるには、国内で争っていてはいけないと考え、イバン族の協力も仰ぎたいと考えていた。
 だが…イバン族の居留地に向かっている途中のことだった。 イバン族に取り囲まれ、追い返されてしまったのだ。 実は戦時中、日本軍の中にイバン族の土地へ侵略を試みた部隊があった。 イバン族は日本兵の首を斬りつけ侵略を阻止。 以来、日本人に対し強い嫌悪感を抱いていたのだ。
 そのため、何度訪れてもすぐに追い出された。 だが、それでも…木村とオマルは、イバン族の元へ通い続けた。photo その一方で、木村は国王に掛け合い、ブルネイにおけるイバン族の地位向上を訴えた。 そして、イバン族の村でも自らインフラ整備を始めた。
 そんなある日のこと。 イバン族のみんなが、自分たちにも作業を手伝わせて欲しいと申し出てきたのだ! 木村の想いは、いつの間にかイバン族にも伝わっていた。 あれほど、日本人を嫌っていたイバン族が木村に信頼を寄せるようになっていったのだ!photo こうしてイバン族とも絆を育んでいった木村。 さらに…木村が言うならと、イバン族とブルネイ王家が歩み寄ったため、マレー人と他の部族との関係も改善。 小さな国土で多民族がいがみあっていたブルネイは、一つにまとまりつつあった。photo だが、そんな時間は長くは続かなかった。 木村がブルネイ県知事に就任しておよそ1年。 軍の命令により、マレーシアのサンダカンへの異動が決まり、ブルネイを離れることとなった。
 滞在期間わずか1年足らず。 だがブルネイにとっては、それ以前の生活が一変し、国の基礎が出来上がった、奇跡の1年となった!photo 別れの日、木村は唯一残した手記に、こう綴った。
『ブルネイには僅か一年位しかいなかったが、現地人の幹部が男泣きに泣いているのを見て、私も泣いた。そしていよいよ出発の日に、約1時間半ほど、政府の幹部が見送って別れを惜んでくれているのを目のあたりに見て、我れながらこれほど信頼してくれたのかと思って、嬉しい気持ち、有難い感情、また、淋しい感情を錯綜して自分も泣いたほどであった。私は過去1年間行なった事が、多少とも現地の為になったのかと内心満足し、ほっとした感じになった』photo そして木村がブルネイを去ってから、22年の時が流れた。 終戦後、地元・宮城へと戻った木村は、検事として活躍しつつ、家族との時間も大切にする毎日を過ごしていた。 しかし…晩年、木村はよくブルネイでの1年を思い出していたという。
 1963年まで、日本では業務や留学以外の海外への渡航が規制されており、ブルネイに行くことはできなかった。 国王宛てに手紙を書く事も考えた。 しかし、マレー語が不得意なうえ、日本は敗戦国。 複雑な感情が木村の筆を留まらせた。photo しかし、そんなある日、まさに夢のような出来事が起きた。 それは、いつものように仕事をこなしている時のことだった。 木村のもとに一通の手紙が届いた。 差出人は上野辰郎。 当時ブルネイで、商社の出張所員を務めており、終戦後も木村と親しくしていた人物だった。
 そこには驚きの内容が書かれていた。 上野の知人が、ブルネイ国王と面会した際、国王からこんな言葉が出たという…
「戦時中に県知事をしてくれた木村という男に、もう一度会ってみたいのですが」photo 実は、ブルネイ国王はどうしても木村に会いたいと思い、自ら日本を訪れ、探し回ったこともあるというのだ! しかし居場所を掴むことができず、断腸の思いでブルネイに帰国したという。 そして手紙の最後には…『私たちと一緒にもう一度ブルネイに行きませんか』と書かれていた。
 そして木村は、ブルネイへと再び旅立った。 その時の心境をこう綴っている。 『二十二年前の恋人に会うような種々の感情、空想を胸に抱き心臓の鼓動を抑え機上の人となった』photo 実に20年以上の時を経て、木村はブルネイの地に降り立った。 そして…いよいよ現国王が待つ王宮へ。 そこにいたのは…オマルだった。 実は、木村の秘書を務めていたオマルは、国王の弟だったのだ。 オマルは兄の遺志を継ぎ、ブルネイの新国王となっていたのだ!
 その後、2人は当時の思い出話に花を咲かせた。 そして、別れの時間が近付くと、オマルは、もう一度ブルネイで働かないかと持ちかけた。 思ってもみない要請だったが、木村はそれを断った。 なぜなら…ブルネイは木村がいた時よりもはるかに立派に成長していた。別れの時…約束した通り、自分たちの手で。photo 木村さんには、亡くなるまで大事にしていたものがあった。 それは、別れ際、オマル国王から渡されたプレゼント。 その現物が今も大切に保管されている。
 高級なものではない。 あえて、オマル国王はブルネイの心を伝える民芸品を贈ったのだという。photo あれからおよそ70年。 今現在、ブルネイの人々は日本の事をどう見ているのだろうか? 「日本人は素晴らしい。一生懸命で多くの事を学ぶ事ができるよ」 「日本は発展していてとても好きです」
 今より未来…今から70年以上前に木村が願ったとおり、日本とブルネイは深い信頼関係で結ばれている。 現在も両国は良好な関係が続いており、ブルネイの天然ガスは輸出総量の約9割が日本へ向けたものだ。
 また東日本大震災の際には、オマル国王の息子である現ブルネイ国王から100万ドルの義援金が送られた他、民間からもおよそ2400万円の義援金や 寄せ書き等のメッセージが送られた。
 木村が、今なおブルネイで尊敬される理由。 それは、彼が日本人の心である“和”の精神を伝えたから。 日本とブルネイの海を越えた友情は、今後も受け継がれていくだろう…末永く。