こんばんは。
満たされ繁栄堂・助産師Akiです。
朝から大阪を中心とした震度6弱の地震が朝、発生しました。
わたしは日曜日から実家の田植えのお手伝いに帰っていました。
朝、家族でご飯をたべながら
「ふふ〜ん」と話していると
グラッグラ・・・
すごい勢いで揺れ始めた家。
すぐに、地震だっ!
って思った。
揺れが思った以上に長い。
!!??
言葉にできない感情。
一瞬で阪神淡路大震災の時の揺れている状況がフラッシュバックした。
また、続けて揺れたら!?
ここ数年で建てた一戸建てからの
「地震です!地震です!」というアナウンスがあった。
家の揺れる音。
アナウンス。
家具の揺れる音。
あらゆる音が
体感覚の揺れと共に
わたしのほうに押し寄せてくる。
怖い。
とっさに
家の中にいた姪っ子たちを抱きしめて、
「大丈夫だよ〜」
声をかけながら、自分も落ち着いてと願った。
テレビをつけると地震情報。
阪神淡路大震災は神戸で。
東北の大震災は東京で。
今回は家族と一緒にいた。
だからこそ、安心できた。
何かあったら、一番大切にしたいのは改めて家族だなと感じた。
*
わたしが今の仕事にこだわり続け、やり続ける理由があった。
実家が農家。
うちの家はコシヒカリと、山田錦を作っている兼業農家。
農繁期はいつも忙しく田植えと、稲刈りは家族が必須で総出のイベントだった。
暑い中、虫がいる田んぼにどろんこになって入っていくことが大嫌い。
あとは農繁期の忙しい時期に空気がピリピリするのが大嫌い。
何かにつけて、理由を作って、農繁期を家で過ごすことを必死で避けていた時期があった。
大学を卒業して実家を出たのも、正直、農家の農繁期の状況から逃れたかった、というところがあった。
10年前。
当時、21歳のわたしは大学4年生の時に就活をしに
夜行バスで神戸→東京→神戸をよく往復していた。
東京への憧れ、聖路加国際病院への強い就職したい気持ち、一人暮らしをしたい。
「もう農家なんかこりごりや。」
一回も家を出たことのない21歳は両親がいるのが、とても当たり前に感じていて
感謝の気持ちすら持つことができていなかった。
東京の就職が決まり、夜行バスで神戸に戻る時に天井を見上げて感じたことを、今でも覚えている。
「わたしがおらんくなったら、おばあちゃんや、お父さん、お母さんは一体どうなるんやろうか。」
そんな、心の中で初めて感じた感情を一人バスに揺られながら感じた。
24歳で東京の病院を辞めて、反対する両親を無理やり納得させて女で一人世界一周の旅に出た。
1年半も連絡が取れないような北米、中米、南米、アフリカ、中東、アジアを旅していた。
きっと母は相当、不安だったと思う。そして毎日、仏壇の前で手を合わせていたことを、母はわたしに一切言わなかったけど、わたしは母がそうしていたことを、知っていた。
旅している間も、正直、海外から農繁期に帰国しようか本当に迷ったけど
今年だけはどうしても、帰れない。その分、別の年に手伝おう。
27歳の時に沖縄に移住した。
沖縄に移住しても、田植えと稲刈りの時期は必ず飛行機のチケットを買って実家に帰った。
わざわざ手伝いに帰るの!?
すごいね。
そう、言われることがよくあったが
農繁期の田植えと、稲刈りは家族が必須で総出のイベント。
もう、これがわたしの身体の中に刻み込まれていた。
でも、正直このイベントがあるから家に帰って家族と会う。
そうじゃなかったら、きっと仕事が優先になっていた。
わたしが今のしごとにこだわり続けて、やっているのにもう一つの理由があった。
農繁期の忙しい、人出がほしい時期に必ず帰りたい。
だって、家族が大変なのに助けれないのってどうよ!?
わたしは、嫌だ。
実際に、病院で勤務調整して休みの届け出を出す理由として
納得してもらいにくい状況があったりした。
家族が大事だと、やっとこの歳になって思うことができたと感じている。
わたしがフリーランスにこだわる理由はそこにある。
休みの時間に、家族と思う存分、言い訳を作らないで過ごせるから。
地震の時に家族と一緒に過ごせてある意味良かった。
わたし一人だと、家族の心配をもっと、もっとしていたと思う。
その場で、無事で安全ということが確認できたから。
きっと、わたしは自分の家族ができた後も
やっぱり家族みんなで過ごす時間が大好きだから、大切にしていきたい。
農家なのに、実際に農業に関わっていないことがわからないことがまだまだたくさんあることに気がついた。
玉ねぎは土から掘った後に縛って干しておくこと。(腐らないように長く保存するため)
じゃがいもは掘った後に日干しにしていくこと。(ビニール袋に入れると湿気があり傷などあると腐りやすくなるため)
枝豆は去年収穫して採った豆を乾燥して保管して、今年植える前に、土箱に撒いて、芽が出てきたら、田んぼの端に植えていくと9月ごろに美味しい枝豆がたくさん食べれるということ。
父の姿、母の姿を見て畑や、土のことを、野菜や米のことを学んでいたつもりだったが
31歳にしてまだまだ知らないことの方が多い(←当たり前)ことに少し、焦りを感じているわたしもいた。
21歳のわたしが東京にいくといった10年前の父と母と。
31歳のわたしが神戸に帰って実家の農業を休みの日に手伝うと言って、今目の前いる父と母。
10年間いろいろあったし
身体も「あそこが痛い、ここが痛い。あぁ、身体がえらいわ(しんどいわ)」という口癖も多くなった気がする。
そうなる度に、なんだか少し心が苦しくなる。
わたしがしてあげれることって、後どんなことがあるんだろう。
役に立てることってどんなことがあるんだろう。
目の前にいると永遠に、そのまま老いることなくいるように見える父と母だけど
心はそうかもしれないけど
身体はそうじゃないんだって、なんとなく気づいている。
だから、やっとこの歳でいろんなことを気づけた(←まだまだ気づいてないこともたくさんあると思うが)
父、母が農業をする上での土について知っていること
野菜を育てる方法、収穫した物を保存する方法、それを次の時期に栽培する時のコツ。
旬の野菜をどうすれば美味しく食べれるか。
わたしは、まだまだ知らないことだらけだったことに気がついたのだった。
(気づいた瞬間、ブログを書きながら号泣していた。)
幸いなことに、父も母もまだ元気で生きているので(本当にこれだあるだけで、まだほっとした。)
実家に帰る頻度を多くして
これから土のこと、野菜のこと、自然野菜のこと、この土地で農業をして生きていくことはどういうことかを
勉強していきたいと思った。
そして、それを次は
わたしが子どもへ、孫へ伝え続けていくものなのだなと思った。
食べることは地球とのまぐあい。
そして、わたしは父と母のまぐあいから生まれた。
そして、その土地から生み出される食べ物を食べて生きてきた。
だから、もっと知りたい。
*
性と心のこと、コミュニケーションを勉強して
両親のパートナシップを見た時に
10年前のわたしが見れなかった、感じることができなかった視点で
二人を見ることができるわたしがいる。
10年前のわたしは
「そんなケンカするんやったら、一緒におらんでいいのに!」と目の前の現状の一点を見て考えていたけど
今のわたしは
「なんやかんや言って、仲良いし、夫婦二人でここまでしているのってすごいな。」と思うようになった。
わたしはまだ、結婚もしてないし、子どももいないけど
だけど、きっと自分の家族ができた後は
もっと両親のことをすごいなって思う、と思う。
地震をきっかけに
田植えをきっかけに
農家であるがゆえに、昔は大嫌いだった農繁期が
今は家族をつなぐ大切な要になっていることに気がつき
そして
ブログを書きながら、家族が好きだということを改めて気がついた時間でした。
最後まで読んでくれてありがとう。
