【アーカイブス】床屋さんがいた頃の琴電(1976年1月) | 「はなぶさ」に集まる仲間たち
2012年02月25日

【アーカイブス】床屋さんがいた頃の琴電(1976年1月)

テーマ:駅長

 電車運転士さんから、琴電とDF50の記事が載せられている。ちょうど、当方も琴電の写真をスキャンしたので、コラボでそれらをご覧にいれたい。電車運転士さんは昭和55年の撮影であるが、当方はその4年前、昭和51年1月の撮影である。


 なぜ、この時に琴電を撮影に行ったかといえば、その前年12月に本線を走る蒸機が無くなり、違う対象に目が向き始めたこと、貫通扉の形から床屋さんといわれた元阪神の30形が京急の230形導入に伴って廃車になる、との情報を入手したことによる。蒸機がないことから、これまで四国は訪れておらず、初訪問であった。この時は、路面電車と私鉄が目的で、当時残っていた夜行の普通や早朝の急行を利用して、宿に泊まらず、高松と松山、高知を行ったり来たりして撮影した。


 この頃、大阪と四国の間は宇高連絡船を介してのルートが中心で、時間がかかることから夜行も活躍していた。こうしたことから、高松には午前0時頃や4時頃に列車が集中して発着しており、それら列車を使えば、島内は極めて便利に効率よく移動ができた。また、早朝に高松に到着できるので、朝のラッシュ時の撮影も容易にできた。


 この時は、2日にわたって琴電を撮影している。


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 これが狙いとした元阪神30形の4連である。当時、30形は長尾線で活躍していたが、ほとんどが2連で、4連は1往復(あるいは片道?)だけだったと記憶する。すべて両運電動車であったと思うが、パンタは2連にひとつしかあがっていない。


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 もうひとつ撮りたかったのが、元木造国電を鋼体化した6000形で、ダブルルーフの屋根を残していた。この撮影の少し前に琴平線から長尾線に移り、この頃でもラッシュに1往復の運転だけで、すぐに廃車になるかと思ったが、今回調べてみると、昭和58年に廃車になったとあるので、意外に遅くまで活躍していたようだ。


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 この頃は、こうしたカットも撮影していた。最近は・・・・? デジは逆光に弱いしね。


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 元阪神車の制御車は、50形であった。特徴ある貫通路は、両開きであったと思う。


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 この頃は、まだモノクロ主体であるが、ちゃんとカラーでも撮影しているので、それを1枚。


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 朝のラッシュが一段落した頃の平木駅。元京浜の10形、阪神の30形、車体新造の60形など、雑多な車両が活躍していた。


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 この時には、志度線も訪問しているが、いずれも潟元のあたりで撮影しただけで、海の見えるところには行っていない。

 この頃には、線路に沿って松林と未舗装の道が併走していて、なかなか良い雰囲気であった。その後、何年かして訪れたら、鉄橋がコンクリートに変わり、松林も無くなって大きく雰囲気が変わっていて、驚いた覚えがある。


 それにしても、この時に、今、レトロ車として売り出している100形や300形は1枚も写っていない。おそらく、この時はまだ琴平線で活躍していたのであろうが、なぜかそれらは撮影に行っていない。雑多な車両が活躍していた長尾、志度線に比べて魅力が乏しいとおもったのであろうが、今にしてみれば、なんとも勿体ない話である。(駅長)


 



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